令和2年度
石塚廃寺東遺跡・大鴨遺跡

(いしづかはいじひがしいせき・おおがもいせき)

2021年1月15日

 石塚廃寺東遺跡と大鴨遺跡の発掘調査は、おかげさまで12月4日に現地作業を終了しました。現在は報告書作成に向けて出土品の整理作業を進めています。
 今回の調査では、大鴨遺跡2区で見つかった「水辺の祭祀場」がニュースとなりました。現在はそこから出土した木製品の実測を進めているところです。
 今回紹介するのは、祭祀場に廃棄された祭祀具の近くから出土した棒状の木製品(写真1)です。現状で長さ31.5㎝、幅と厚さは最大1.7㎝です。腐食や欠けた部分があるため状態は悪いですが、おおよその形は分かります。拡大した写真2をみると、側面に連続する切込みがあります。
 写真3は「びんざさら」(左)と「すりざさら」(右)という現代の楽器です。「びんざさら」は伸縮させて、「すりざさら」は側面に連続する刻みを付けた棒に、割り裂いた竹の棒をこすりつけて音を出します。どちらも民俗芸能の楽器とされ、平安時代半ばの11世紀には、「田楽(でんがく)」と呼ばれる田植えの際に行われた歌や踊りのために「すりざさら」が使われていたようです。今回見つかった写真1の木製品は、すりざさらの簓子(ささらこ:竹ではなく木棒の方)にとてもよく似ています。
 この木製品がいつのものかは検討中ですが、祭祀具がまとめて廃棄されたのが奈良時代後半と考えているので、これに近い時期と思われます。楽器が出土することは珍しく、古代の音楽の歴史を考えるうえで貴重な資料です。当時は、誰がどのような機会にどんな目的で使用していたのでしょうか。

   

2020年10月27日

 大鴨遺跡1区では、第2遺構面の調査を終了しました。
 調査区のほぼ中央で南から北方向にS字状に延びる落ち込みを確認しました。砂や砂利が堆積していたことから、川の跡と考えられます。その東側には2本の溝が川の流れに沿ってカーブしながら延びています。溝を掘ってみたところ底面に「波板状凹凸面」と呼ばれる連続する不整形の凹凸がありました。これは古墳時代から奈良・平安時代の「道路」と考えられる遺構によく見られる特徴です。
 遺物は残念ながらほとんど出土しておらず時期は確定できません。ただしこの「道路」の延長上約180m北に位置する大鴨遺跡2区にも「波板状凹凸面」を持つ「道路」があり、飛鳥時代から奈良時代の土器や瓦が出土しています。それと同時期であれば奈良時代の「道路」ということになります。
 石塚廃寺についてはこれまで詳しいことはよくわかっていませんでしたが、倉吉市南部の関金地域から古代の須恵器窯や中世の製鉄遺跡などの生産遺跡が見つかっていることから、こうした物資を石塚廃寺に運び込むための道だったのかもしれません。
 現地での調査は一区切りつきましたが、今後、専門的な見地から検討を進めていく予定です。また新たな発見がありましたらご紹介しますので、お楽しみに。

  

2020年10月5日

 石塚廃寺東遺跡のP1区で、古代の流路(川跡)から、墨で文字が書かれた土器片(墨書土器と呼んでいます)が1点見つかりました。この土器は、土師器(はじき)と呼ばれる焼き物で、奈良時代から平安時代にかけて作られた、坏か皿の底部分です。この土器の底部外面にある高台(器の底を一段高くするために付けられている台状の部分。現代でも茶碗などに付けられている)の内側に文字が書かれていました。なお、内面には赤い顔料が塗られていた痕跡が、かすかに残っていました。
 書かれていた文字は、残っている部分から考えて「大」の可能性が高いと思いますが、「奈」などの可能性も否定できません。残念ながら破片のため、残りの部分が見つからない限りなんと書かれていたのか(1文字だけなのか、2文字以上書かれていたのか)、どのような意味なのかを推測することは困難ですが、北西側の隣接地に古代のお寺である石塚廃寺(当時、このお寺が何と呼ばれていたかは分かっていません)があることから、石塚廃寺に関係する可能性は高いと考えられます。
 なお、遺跡は倉吉市の大鴨地区にありますが、ここは古代の伯耆国久米郡大鴨郷にあたるので、「大鴨」と書かれていた可能性もあるのではと想像は広がります。

 

2020年9月11日

 大鴨遺跡1区では、第1遺構面の調査を終了しました。主な遺構は、掘立柱建物5棟、火葬墓2基、溝、大小の穴などです。これらの遺構は、おおよそ鎌倉時代から室町時代のものと考えられますが、出土した遺物の特徴を基に、今後さらに詳しく検討していきます。
 HPで以前ご紹介した火葬墓は、掘り下げたところ多量の骨片が出土しました。もろいために土ごと取り上げましたが、頭を北、体を西に向けていたように見えます(写真1)。今後、取り上げた土を「ふるい」にかけて詳しく調べていきます。
 FBでご紹介した掘立柱建物は、北東側の一画に柵を設けていたことが分かりました。(写真2・3)柱穴からは、柱を支えるために据えられた平らな石や、柱が動かないように固めた石のほか、鍋や素焼きの小皿が出土しました。これらの遺構は一つの屋敷地として、大きな掘立柱建物が母屋で、隣にある小型の建物は作業場や倉庫などに使用されていたのでしょう。建物がなくなった後には、火葬の場へと移り変わりました。
 さらに下の第2遺構面には、古墳時代や弥生時代の遺構があると考えられます。現在は堆積した土を掘り下げて遺構を探しているところです。また新しい発見がありましたらご紹介しますので、お楽しみに。

  

2020年7月27日

大鴨遺跡1区の調査を進めています。重機で現代の耕作土を取り除き、さらに人力で遺物を含んでいる層を掘り下げて、炭や焼けた土を含んだ楕円形の広がり(写真1)を見つけました(左側が北方向です)。所々に細かな白い破片があり(写真2)、よく見ると焼けた骨のようです。
これは室町時代の火葬墓と考えられます。火葬は古代から仏教の葬法として行われるようになりました。現代では焼かれた骨は拾われて蔵骨器に入れられますが、この墓は焼いた後、そのまま埋められたようです。
長さ107cm、幅は70cm程とそれほど大きくないので、子どもの墓かもしれません。穴のへりには副葬品とみられる土器のかけらが見えます。割れていますが土師器(はじき)の皿のようです。この土器を調べることで墓の造られた詳しい年代が特定できることでしょう。
周囲からは、他にも四角形や小さくて丸い広がり(写真3)が見つかっており、室町時代の墓地であった可能性があります。さらに周りの遺構の状況を確認し、写真や図面を作成してから掘り始める予定です。


2020年6月30日

 石塚廃寺東遺跡P3区から古代(奈良時代)の瓦が出土しました。
 これらの瓦は、現代の田んぼ等の土を重機で掘った際に見つかったもので、すぐ西隣にある石塚廃寺という古代寺院で使われていたと考えられます。
 当時の屋根瓦は現代とは異なり、「丸瓦」と「平瓦」という2種類の瓦を組み合わせて葺かれていました。また、軒先は「軒丸瓦(のきまるがわら)」「軒平瓦(のきひらがわら)」という文様を持つ瓦で飾られていました。軒丸瓦(写真1、2)は仏教を象徴するハスの花(蓮華・れんげ)、軒平瓦(写真3)は植物の茎やツルを文様化しています。
 これらの瓦を詳しく調べることにより、石塚廃寺の実態解明につながることが期待されます。

  
写真1 軒丸瓦                          写真2 軒丸瓦 ※写真1の軒丸瓦とは蓮華文様の表現方法が異なっています 

写真3 軒平瓦


2020年6月24日

(公財)鳥取県教育文化財団調査室では、6月から一般国道313号(倉吉関金道路)の道路改良工事に伴う石塚廃寺東遺跡(倉吉市石塚地区)と大鴨遺跡(倉吉市福山地区)の発掘調査を開始しました。
 調査地は、石塚廃寺東遺跡が8ヶ所(P1区~P8区と呼称)、大鴨遺跡が2ヶ所(1区、2区と呼称)の計10ヶ所に分かれています。これらの遺跡は、県史跡に指定されている奈良時代のお寺の跡「石塚廃寺」に隣接しており、関連する遺構、遺物の出土が期待されます。
 発掘調査は、3人の担当職員が支援業者の協力を得ながら10月下旬頃まで行う予定です。
 写真は、機械で現代の田んぼ等の土を取り除いているところです。これから随時情報を更新していきますのでお楽しみに!!



写真1 石塚廃寺東遺跡P3区の作業風景  

図1 遺跡の位置 図2 調査区位置図