令和4年度 長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡の発掘調査成果

2023年3月23日
令和4年度の発掘調査が終了しました!

3月16日、長瀬高浜遺跡2区の今年度の発掘調査がついに終了しました。通常、鳥取県では発掘調査を行わない冬の調査で、1月の厳しい寒波の際には雪に覆われるとともに砂が凍ってしまい、掘ることができない日もありましたが、2月以降は天候に恵まれて順調に調査を進めることができました。
調査の結果、古墳時代初めごろの竪穴建物跡4棟、掘立柱建物跡1棟、鎌倉時代ごろの畠跡などを確認することができました。遺物は大量の土器に加え、古墳時代を中心とする鉄器、石器、玉類などが出土し、数多くの成果を上げることができました。

調査はいったん終了しますが、下層に古墳時代以前の古い時代の遺構が存在する可能性があることから、4月から調査を再開する予定です。また、来年度は隣接する調査区の調査を6月ごろから新たに開始する予定です。過去の調査結果から、今年度の調査区以上に遺構が集中するエリアと予想されますので、またどんな発見があるのか、今から楽しみです。

現地調査を行っていない期間も大量に出土した土器洗浄などの整理作業を引き続き行っていきますので、その中で分かったことを随時発信していきたいと思います。お楽しみに。

見つかった古墳時代の遺構群(西から撮影)

 

完掘した竪穴建物跡(北から撮影)

2023年3月17日
ついに竪穴建物跡を完掘!

大量の土器が出土していた古墳時代前期の竪穴建物跡ですが、ついに完掘となりました。土器を取り上げながら慎重に掘り進めると、深さ1.2m付近でようやく床面が現れました。床面付近から土器はほとんど出土せず、以前お話ししたように、土器の多くはやはり竪穴が埋まっていく途中で投棄されたものでした。
竪穴建物跡は一辺7m前後と、比較的規模が大きく、床面積は27.5㎡(たたみ15畳)ほどもあります。床面では壁際を巡る溝や柱穴が見つかりましたが、確実な柱穴は2つしか確認できませんでした。この当時の竪穴建物は4本柱で屋根を支える構造が一般的で、2本柱の建物もないわけではありませんが、見つかった建物は2本の柱が床面の片寄った位置にあることから、この2本の柱だけで屋根を支えたとはとても考えられません。はっきりとしたことは分かりませんが、壁面にいくつか柱穴の可能性がある小穴が見つかっていることから、床面の柱穴とセットで上屋を支える構造だったのかもしれません。

完掘した竪穴建物跡

2023年3月15日
掘立柱建物を確認

 長瀬高浜遺跡では、住居とみられる竪穴建物跡以外にもこれまでに64棟もの掘立柱建物跡が見つかっています。その多くは古墳時代のもので、中には神殿と呼ばれるような大型の建物跡もあります。
 今回の調査でも掘立柱建物跡が見つかりました。8本の柱からなり、柱穴の大きさは径40~60㎝、深さは最大で70㎝です(写真1)。
 見つかった掘立柱建物跡を復元するとイラストのようになります。平面での大きさは、短辺(梁行・はりゆき)約1.9m、長辺(桁行・けたゆき)約3.3mと平均的なサイズです。ただしよく見ると、短辺の真ん中にある柱穴は両方とも外側に張り出しています。こうした柱を独立棟持(むなもち)柱といい、屋根の一番高いところにある棟木(むなぎ)を建物の外側から直接支える柱のことです。このような独立棟持柱をもつ建物は現在でも神社建築に見ることができます。
建物の周囲には焼けた砂や炭化物が散らばり、柱穴からも炭化物が出土していることから、この建物は火事で焼け落ちた可能性があります。
 建物の隅に位置する柱穴では、柱を抜き取った穴に土器が埋納されていました(写真2)。口の部分が割れていますが、小型の壺のようです。他の柱穴でも同じような状態で小さな甕が出土しており、焼けた建物を片付ける際に祭祀行為が行われた可能性があります。
 今のところ掘立柱建物跡はこの1棟だけですが、クロスナの下にはまだ見つかっていない建物跡があるかもしれません。今後の調査が楽しみです。

写真1 見つかった掘立柱建物跡

写真2 柱穴に埋納された土器

掘立柱建物の模式図

2023年3月10日
鞴の羽口や鉄滓が出土!

 前回は鉄製品についてご紹介しましたが、今回はその生産に関わる出土品が新たに見つかりました。皆さんは、写真の出土品が何か分かりますでしょうか?これは、鞴(ふいご)(※)の羽口(はぐち)と呼ばれる、鍛冶炉に風を送るために粘土でつくられた管です(図)。先端部の小さな破片ですが、高温の炉内に挿入されていたために、かなり溶けて短くなっていることが分かります。
 長瀬高浜遺跡では過去の調査でも羽口が少量ながら出土しています。いずれも孔の径は2~3㎝ほどですが、外形が円筒形をしたものとラッパ状に開くものがあります。今回出土した資料は孔の径はほぼ同じで、外形は後者に近いとみられます。また、今回の調査では今のところ1点のみですが、鉄を溶かした際に生じた不純物である鉄滓(てっさい)も新たに出土しました。

 「鉄」というと、どうしても製品ばかりに目を奪われがちですが、こうした羽口や鉄滓の出土は、鉄製品の出土以上に重要なことを意味しています。なぜなら、これらの遺物は、長瀬高浜遺跡が単に鉄製品を数多く持っていただけではなく、集落内で鉄製品を生産していたことを示しているためです。じつは、羽口は弥生時代にはみられず、古墳時代に朝鮮半島から新たに伝わってきた送風技術と考えられています。今回出土した羽口や鉄滓は、一緒に出土した土器から古墳時代前期に遡る資料とみられます。したがって、長瀬高浜遺跡は当時の最新かつ高度な鍛冶技術を国内でいち早く導入し、鉄器生産を行うことができた集落といえます。ただ、これまでの調査では鍛冶炉は見つかっていないことから、今後の調査で明確な鍛冶工房の発見が期待されます。

※鞴(ふいご)とは鍛冶炉、もしくは製鉄炉に風を送る装置のことをいいます。

出土した鞴の羽口(先端部の破片)

鍛冶作業復元イラスト(伯耆町坂長第6遺跡の鍛冶工房・奈良時代)

2023年3月7日

鉄の矢じりが出土!

大量の土器が捨てられていた古墳時代前期の竪穴建物跡から、今度は鉄鏃(てつぞく)(矢じり(矢の先端))が出土しました(写真)。写真手前の資料は完存しており、大きさは長さ10㎝、幅2㎝ほどです。サビに覆われているため、今後、X線撮影などにより詳細に観察する必要がありますが、鋭利な刃を持ち、かなり精巧に作られているようにみえます。
 じつは、長瀬高浜遺跡は過去の調査で250点以上もの鉄製品が出土しています。古墳時代には、貴重品であった鉄製品をたくさん持っていた集落はごく限られており、長瀬高浜遺跡は山陰地方でも有数の出土量を誇っています。出土した鉄製品は、鉄鏃の他に、鎌や鋤鍬先、斧(手斧(ちょうな))、刀子(とうす)、ヤリガンナ、釣針など様々なものがあります。今回の調査でも現時点で鉄鏃に加え、斧、ヤリガンナ、稲の穂を刈り取るための穂摘具(ほつみぐ)の刃先などが新たに出土しています。

 なぜ、これだけ多くの鉄製品を長瀬高浜遺跡のムラは手に入れることができたのでしょうか?その理由は、天然の良港である東郷湖(とうごうこ)のほとりに位置し、日本海に面するその立地にヒントがあるとみられます。時代こそ異なりますが、弥生時代の青谷上寺地遺跡も今は埋没してしまった潟湖(ラグーン)のほとりに位置し、木製品や鉄製品をはじめとする豊富な出土品から港湾集落として栄えたとされています。長瀬高浜遺跡もおそらく、青谷上寺地遺跡と同様に海上交通の拠点として重要な役割を果たしていた可能性があります。日本海を通じた他地域との交易によって長瀬高浜遺跡は$7E6B栄し、鉄製品に代表される当時最先端の文物を入手することができたのではないでしょうか。

2023年3月1日
おびただしい数の土器が出土!

 大量の土器が出土していた古墳時代前期の竪穴建物跡、もしくは井戸跡とみられる大きな穴を掘り進めると、さらに土器が次から次へと姿を現し、いよいよ足の踏み場もない状態になってきました(写真1)。これまで紹介した甕や甑(こしき)形土器の他に、壺や高坏(たかつき)、$57E6、器台(きだい)などバラエティーに富んだ形の土師器がみられ、大きさも大小様々なものが出土しています。またその中には、以前紹介したようなほとんど壊れていない甕もゴロゴロと転がっているのが分かります(写真2)。
 遺構の性格は、まだはっきりしない部分もありますが、竪穴建物跡である可能性が高まってきました。出土状況からすると、土器の大部分はこの建物の住人が使っていたものではなく、建物として使われなくなった後、竪穴が埋没していく過程でできたくぼ地に投棄されたものと考えられます。出土量はざっとコンテナ50箱(500㎏)以上に及び、今回の調査区で出土した遺物量の7~8割以上を占めているとみられます。過去の調査で241棟もの竪穴建物跡が見つかっている長瀬高浜遺跡ですが、これほど大量の土器がまとまって出土した場所は僅かしかありません。なぜ、この場所に大量の土器が捨てられたのか、引き続き検討していきたいと思います。

写真1:竪穴建物内に捨てられた大量の土器

写真2:ほぼ完全な形をした甕がゴロゴロと転がっている。

2023年2月21日

 この季節、なかなか天候には恵まれませんが、この機会に長瀬高浜遺跡が地元でいかに身近な存在であるかということをご紹介します。
 写真1は東郷池から日本海に注ぐ橋津川の流れ出す場所にかかっている浅津(あそづ)橋です。橋の上に何か立っており、よく見ると「埴輪(はにわ)」の形をしています。
 埴輪は通常、古墳の墳丘上に立てられているものですが、長瀬高浜遺跡では1980(昭和55)年に集落の一角から多数の埴輪がまとまって発見されました。甲冑(かっちゅう)形・盾(たて)形・鞆(とも・※1)形・家形・蓋(きぬがさ・※2)形の形象埴輪をはじめ、朝顔形埴輪、円筒埴輪があり、資料的価値の高さから国の重要文化財に指定されました。その甲冑形埴輪のモニュメントが浅津橋の東側の対となる親柱の上に立てられ、渡る人を迎えてくれます。
 写真2は湯梨浜町羽合歴史民俗資料館です。長瀬高浜遺跡の出土品を中心に、旧羽合町内の文化財を展示しています。資料館入口の横には甲冑形と蓋形の形象埴輪のモザイク画があります。当財団のキャラクター「きぬちゃん」は、蓋形埴輪がモデルとなっています。
 写真3は下水道のマンホールの蓋です。気を付けていないと見落としてしまいそうですが、ここにも甲冑形の埴輪がデザインされています。下水処理場の発掘調査で埴輪群が見つかったからでしょうか?
このように長瀬高浜遺跡は普段から地元に身近な遺跡として親しまれています。
いよいよ2月も後半となり、春に向けて天候の回復を期待しています。

※1 弓を射る時に左手首につける防具
※2 貴人に差しかける長い柄のカサ

写真1

写真2

きぬちゃん

写真3

2023年2月16日

 前回、壊れていない完全な形の土器が出土しましたが、今度は不思議な形の土器が出てきました(写真1)。把手が付いた板のような破片で、どうやら大型の土器の一部のようです。
 これは「山陰型甑(こしき)形土器」と呼ばれている土器で、長瀬高浜遺跡ではこれまでに約30点見つかっています。一方の口が広く、一方が狭いメガホンのような形をしています(写真2)。その名のとおり山陰地域に特有の土器ですが、広島県の北部や愛媛県、北部九州でも出土例があります。
大きさは小型品から大型品まで、高さは小型のもので約40㎝、大型のものは60~70㎝にもなります。写真2は平成7年度の調査で井戸から出土したものです。高さ71㎝、広い方の口径は62㎝で、小さな子どもなら中に隠れることができるほどです。
 この変わった名前の由来となった「甑」とは、米などを蒸すために底に穴の開いた「蒸し器」のことです。底がないことに加え、上下の把手に縄をかけて吊り下げれば甑として使うのに都合がよいなどの理由から1)「甑」説が唱えられましたが、ほかにも2)排煙装置、3)燻製(くんせい)を作る道具、4)マツリの道具、など諸説あります。最近では、カマドに載せて使う韓国の「煙筒形土製品」に形が似ていることから、2)の排煙装置説が有力となってきているようです。しかしながら、山陰の竪穴建物にはカマドがないこと、「煙筒形土製品」がよく使われるようになるのは5~6世紀(古墳時代中~後期)ですが、「山陰型甑形土器」は古墳時代前期に使われ中期には姿を消してしまうので、両者を直ちに結びつけることは難しいようです。
 「山陰型甑形土器」は砂の中から出てきたばかり。これからさらに周りを掘り下げていきます。果たして謎を解く手がかりを見つけることができるのでしょうか? 期待が膨らみます。

参考文献 「謎の土器 山陰型甑形土器」『鳥取県の考古学』第5巻(古墳時代2)、鳥取県埋蔵文化財センター2009年

写真1 出土した山陰型甑形土器の破片

写真2 復元された「山陰型甑形土器」(鳥取県埋蔵文化財センター提供)

2023年2月13日

 前回、古墳時代前期(約1,700年前)の土器が大量に見つかっていることをお伝えしましたが、その中に、壊れていない完全な形の土器が含まれていました(写真1)。高さが23㎝、胴部の径が20㎝程の土師器の甕(かめ)で、煮炊きに使われた一般的なもののため、外面にススが付着していますが、当時の近畿地方で作られていた土器に似た形をしています(写真2)。
 じつは、皆さんが博物館や資料館などで目にする土器は、壊れてバラバラの状態で出土したものを接合し復元したものが多く、このように欠けることなくそのままの状態で遺跡から出土することは稀です。それに対して、長瀬高浜遺跡は過去の調査でも竪穴建物の床面などからこうした完形の土器がゴロゴロと出土しており、土器の保存状態が非常に良いことが知られています(写真3)。理由は定かではありませんが、均質で、きめが細かい砂によって埋没していることから、その埋蔵環境と何らかの関係があるのかもしれません。
 また、考古学では土器の形や文様などを基に年代を推定するため、今回のような完形品は、遺跡や遺構の年代を知るうえで重要な資料といえます。これまで大量かつ保存状態良く出土した長瀬高浜遺跡の土器は、その移り変わりから古墳時代の年代を探るうえでの指標としてしばしば用いられています。
 ちなみに、現在、鳥取県埋蔵文化財センター2階の、古墳時代の土器の移り変わりが一目でわかる収蔵展示コーナーでは、長瀬高浜遺跡の出土土器が数多く展示されています。常設展にも長瀬高浜遺跡に関する展示がありますので、ぜひ、ご覧ください。

※鳥取県埋蔵文化財センターの収蔵展示についてはこちら→ 収蔵展示解説その1 「近畿地方の影響 古墳時代前期の土器」(鳥取県埋蔵文化財センターホームページ)

写真1 竪穴住居跡、もしくは井戸跡に捨てられた大量の土器

写真2 完全な形で残っていた土師器の甕

写真3 過去の調査で竪穴住居跡の床面から出土したおびただしい土器(鳥取県埋蔵文化財センター提供)

2023年2月3日

 大雪で遺跡もすっぽりと雪に覆われ、調査のできない日が続いています(写真1)。そこで今回は出土した土器の洗浄作業についてのお話です。
 長瀬高浜遺跡は古墳時代前期から中期(今からおよそ1600年前)の大集落で、様々な遺物が出土します。とくに多いのは土器で、今回の調査でも建物または井戸とみられる大きな穴から続々と見つかっています(写真2)。
 砂の中から出土した土器は土のついた土器に比べると洗いやすいと思われるかもしれません。ところが土器の出てくるクロスナは、細かな砂と黒色に腐食した植物の繊維が混じり合い、指に付いたら洗っても簡単には取れません。これが土器の割れ口や表面に施されている文様や調整の隙間に入り込んでいるので、かなり厄介です。そのためシンクの中に水を溜め、ふやかしながら一点ずつ傷を付けないよう、ハケや筆などで軽く叩いて汚れを浮かせます(写真3)。洗った土器はザルに置いて水を切り、十分に乾燥させます。
 土器は1日あたりコンテナ2箱、重量で約20㎏出土しています。調査を開始してからすでに50箱、500㎏もの土器が出土した計算になります。調査はこれからピークを迎え、さらに多くの土器が見つかることが予想されます。
 洗浄作業中に、変わった形や文様の土器に気付くこともあります。今後果たしてどんな「発見」があるのか、ワクワクしながら作業を進めています。

写真1 雪に覆われた発掘現場

写真2 土器が出土したようす

写真3 土器洗浄作業

2023年1月30日

砂の中のお墓2 ~火葬墓~

 今回もお墓のお話です。鎌倉時代の畠跡の下層からお墓とみられる土坑を見つけました。この土坑は長さ約1.3m、幅約0.7mの楕円形で、長軸は東西方向を向いています。
 慎重に掘り下げたところ、中から灰または骨?の小片とともに多量の炭が出てきたことから、火葬墓と考えられます(写真1)。深さは約30㎝で火葬墓としてはかなり深いタイプです(写真2)。
 これまでの長瀬高浜遺跡の調査でも平安時代の終わり頃から鎌倉・室町時代までの多数の火葬墓が見つかっています。その成果をみると、火葬墓には板状の石を箱状に組んでその中で焼いたり(写真3)、石や砂の上でそのまま焼いたものがあります。
 今回、副葬品は見つかりませんでしたが、古い時代の火葬墓ほど深く、時代が新しくなるほど浅くなる傾向が見られることから、平安時代頃のお墓かもしれません。今後、出土した炭を使って放射性炭素年代測定を行い、いつのお墓なのか明らかにしていきたいと考えています。
 今回の調査では火葬墓は今のところ1つだけですが、こうしたお墓はまとまって造られることもあるので、さらに見つかるかもしれません。気を付けながら調査を進めていく予定です。

写真1 掘り下げ中の火葬墓

写真2 完掘状況

写真3 過去の調査で見つかった火葬墓(鳥取県埋蔵文化財センター提供)

2023年1月24日

昔のアクセサリー(ただし失敗作)

 過去の調査で国内最古級となる弥生時代前期の玉作工房が発見された長瀬高浜遺跡ですが、今回の調査でも古墳時代の遺構から、首飾りなどに使われた管玉が2点出土しました。
2点とも竪穴住居跡や井戸跡などの可能性がある大きな穴の中から出土し、土師器の壺や甕などと一緒に捨てられた状態で見つかりました(写真1)。1点は径7㎜程度、長さ1.5㎝の一般的なサイズですが、もう1点は径1.4㎝、長さ4㎝と、径が2倍もあるかなり大型品です(写真2)。小さい方は深緑色の碧玉製、大きい方は、淡い緑色の緑色凝灰岩製とみられます。
 事務所に持ち帰りさっそく洗ってみたところ、小さい方の管玉には紐を通すための孔が2つ空いていることが分かりました(写真3)。ところが、反対側は、孔が1つしかなく、途中でつながって一つの孔になっているようです。これは一度孔を開けたものの、うまく真ん中に貫通させることができず、もう一度孔を開け直したためと考えられます。高度な技術を要する玉作りは専門の工人が従事していたと考えられますが、たまには失敗することもあったのでしょう。

写真1 大型の管玉が出土したようす

写真2 出土した2つの管玉

写真3 孔が2つある管玉

2023年1月20日

 砂の中のお墓

 前回紹介したクロスナの途切れた標高約7mの平坦地で、お墓と考えられる遺構を調査しました。
 この遺構は長さ約2m、幅約0.7mの長方形をしています。深さは20㎝程しかないため、後世に上面をかなり削られてしまったようですが、底面の短辺の両側に板を設置していた痕跡が見つかりました。このことから、木棺をそのまま埋葬したお墓と考えられます(写真1・2)。
 造られた方法を復元すると、底面の両端の穴に小口(こぐち)板を立て、埋めた砂を道具などで硬く叩きしめて板を固定したと考えられます(図)。ただし長辺側の板の痕跡は確認できませんでした。
 残念ながら人骨は見つからず、頭がどちらの方向を向いていたのかは分かりませんでした。それでも掘った砂を持ち帰ってふるいにかけ、骨や歯の破片や玉類など微細な副葬品がないかを調べる予定です。
 今回のお墓が造られた時代は分かりませんが、長瀬高浜遺跡の過去の調査では、今回のように木棺で埋葬したもののほか、棺をもたない素掘りのもの、板石の棺、円筒埴輪棺など、多数の弥生時代や古墳時代のお墓が調査されています。また古墳も99基見つかっていることから、同時期のお墓である可能性が高いと考えられます。

写真1 見つかった時の様子

写真2 掘り上げたお墓

木棺の模式図(鳥取県埋蔵文化財センター2007『鳥取県の考古学3』から引用)

2023年1月13日

クロスナってどんな砂?

 長瀬高浜遺跡を語るうえで欠かすことができないのが、「クロスナ」です。クロスナとは、文字どおり黒い色をした砂の地層のことです(写真)。遺跡のある北条砂丘を形成している砂は基本的に白色や黄色をした砂なのですが、クロスナはこうしたし白砂と白砂の間にパックされた状態で堆積しています。実は、長瀬高浜遺跡の遺構や遺物の多くは、このクロスナの中から見つかっているのです。
 では、この特徴的なクロスナは、いつ、どのような成因で堆積したのでしょうか?まず、このクロスナが形成された時期は、弥生時代から平安時時代にかけてと考えられています。この時期、砂丘の発達が一旦止まり、地表に植物が繁茂して、一時的に草原のような景観をなしていたとみられます。植物はやがて枯れ、有機質の土壌が形成され、それがクロスナとなります。よく似たものとして、鳥取県の丘陵地でよくみられる「クロボク」が知られています。クロボクは火山灰が有機質を含むことでできた土壌で、成因としてはクロスナと同じです。気候が安定し、飛砂等に悩まされることがなくなったため、長瀬高浜遺跡の人々はこの砂丘上に住み続けることができたと考えられます。確かに現地で調査していると、足がとられて歩きにくい白砂とは違い、クロスナは想像以上に固くしまっていて安定した地面であることを実感できます。
 これから、いよいよ、このクロスナを掘り下げ、遺跡の中心となる古墳時代の調査に入っていきます。建物跡などの遺構は基本的にクロスナによって埋まっていることから、肉眼での認識が難しく、かなり難易度の高い調査となります。慎重に調査を進めていく予定です。

クロスナの堆積状況 黒色部分がクロスナ

2023年1月6日

畠に残された足跡は・・・?

 鎌倉時代の畠を調査していると、クロスナの上にシロスナで埋まった小さな穴がいくつも見つかりました(写真1)。何かの足跡のようです。
足跡をよく観察すると片側は丸く、反対が二つに分かれているので、蹄(ひづめ)が二つに分かれる偶蹄目(牛)の足跡と分かりました(写真2)。
こうした牛の足跡は、過去に行われた長瀬高浜遺跡の調査(平成10年度実施)でも確認されています。昨年調査した倉吉市の大鴨遺跡でも川が埋まった土の上から多数の人や牛の足跡が見つかりました(→大鴨遺跡2021年7月2日の記事)。
 クロスナは「砂」なので粘土のように軟らかくありませんが、水を含むと土と同じような水たまりができます。こうしたぬかるみ状の場所を牛が歩いてできた穴に風で飛ばされてきたシロスナが入り込み、足跡がそのままの形で残されたのでしょう。
 興味深いことは、こうした足跡があるのは畠の畝(うね)が残っている場所ではなく、畝のない、耕作されていない範囲にあることです。
牛が耕作中の畠に入らないよう柵や塀、生垣などで囲って牛を放牧していたのかもしれません。畠が営まれていた鎌倉時代には、牛は水田だけでなく畠でも活躍していたようです。

写真1 足跡が見つかった様子

写真2 足跡(拡大)

クロスナの堆積状況 黒色部分がクロスナ

2022年12月26日

嫁殺しの浜井戸

 前回紹介した畠がつくられた後、遺跡は室町時代から江戸時代にかけて厚い砂によって覆われてしまいました。その砂の厚さは6~7mにも及びます。
これは、急激な気候変化に加え、当時、中国山地で盛んに行われた、たたら製鉄のために砂鉄を採取する「かんな流し」によって大量の土砂が天神川の上流から運ばれたことも一つの原因として考えられています。
砂が堆積した後、長瀬高浜遺跡は再び、農地として利用されるようになります。写真は、径4~5mもある大きな丸い穴ですが、いったい何の穴か分かりますか?
これは「浜井戸」と呼ばれる、砂丘で農作物を栽培するために掘られた井戸です。浜井戸は昭和20年代まで使われ、北条砂丘全体では1200基程度掘られていたとみられます。
鳥取県では、江戸時代中期に備中から綿作の技術が伝えられたとされ、北条砂丘でも綿栽培が始められました。綿の他には菜種や藍、さつまいも、大麦、そら豆、えんどう豆、幕末には葉たばこの栽培も行われました。
浜井戸は、1000㎡あたり12~13基の密度で分布し、畑ごとに設けられました。北条砂丘は比較的地下水位が高く、2~3mも掘れば十分な水を得ることができたため、農業が発展しました。ただし、農家にとって浜井戸から水を汲み上げ、畑に撒く作業は過酷を極め、とりわけ暑さが厳しい夏場の労働環境は劣悪であったことから、『嫁殺しの浜井戸』などと呼ばれていました。

参考文献
浜野知恵・大野順子2012「鳥取県北条砂丘開拓農地における土地利用の変遷-『嫁殺しの浜井戸』の発展的解消に向けて―」『桃山学院大学人間科学』№43

見つかった浜井戸 砂で埋まっていてまだ底は見えていない。

2022年12月21日

畠の跡を調査しています

 12月15日、鳥取にもいよいよ寒波が到来し、雪が降る中での発掘調査となってきました。
前回、鎌倉時代ごろの畠について紹介しましたが、覆われたシロスナを丁寧に除去すると畝の凹凸がはっきりと姿を現しました(写真1)。こうした畠は過去の調査でも発見され、鎌倉時代ごろに砂丘上のかなり広範囲で畠が営まれていたことが分かります(写真2)。
では、砂丘でどんな作物がつくられていたのでしょうか?とても気になりますが、それを特定することは容易ではありません。過去の調査では、土壌分析によって稲(陸稲)が育てられた可能性も指摘されていますが、はっきりしません。砂丘で育てられた作物で、鳥取の特産物といえば、やはり、らっきょうや長いも、白ネギが思い浮かびますが…。何か明らかにできる手がかりはないか、引き続き検討していきます。
なお、過去の土壌分析では、雑草であるシバが多く検出された箇所もあることから、耕作中の畠に隣接して休耕地もあったようです。また、シバが多く生えていたエリアでは牛などの足跡も見つかっていることから、こうした休耕地では家畜の放牧が行われていた可能性も指摘されています。

(写真1) 畠の畝が見つかった様子

(写真2) 過去の調査で見つかった畠 写真提供:鳥取県埋蔵文化財センター

2022年12月14日
長瀬高浜遺跡の発掘調査を開始しました!

 寒さが本格化するなか、12月より長瀬高浜遺跡の発掘調査を開始しました。
砂丘の砂を取り除いていくと、地面にシマシマ模様の凹凸が・・・。これは鎌倉時代頃の「畠」の畝の痕跡と考えられます。
いったい何の作物を育てていたのでしょうか?これから詳しく調べていきます。

姿を現した畠 畝と畝の間に白い砂がたまっている。

調査区全体 2か所の畠がみえる 左(東)側の畠はL字形の溝で区画されている?

2022年11月30日

長瀬高浜遺跡の発掘調査を開始します!

 (公財)鳥取県教育文化財団調査室では、令和4年12月より、長瀬高浜遺跡(鳥取県東伯郡湯梨浜町はわい長瀬)の発掘調査を開始します。

 長瀬高浜遺跡は45年前(1977年・昭和52年)に当財団によって最初の発掘調査が行われ、砂丘の下から弥生~古墳時代のムラの跡が姿を現しました。その後、昭和~平成にかけての延べ10年間の調査により、県内最大級の古墳時代のムラの跡、我が国最古級の弥生時代の玉作り工房跡、国の重要文化財に指定されている埴輪群、中世の畠の跡など貴重な発見が相次ぎ、鳥取県を代表する遺跡として知られています。

 一般国道9号(北条道路)の改築事業に伴う今回の調査は、1998年(平成10年)以来24年ぶりの発掘調査となります。今回はどのような発見があるか、我々も楽しみにしています。調査成果についてはこのページで随時お知らせしますのでご期待ください。

※発掘調査区は道路工事現場の中にあるため、発掘調査を見学いただくことはできません。ご了承ください。

過去の調査で見つかった古墳時代のムラ(鳥取県埋蔵文化財センター提供)

これで長瀬高浜遺跡のことがわかる!動画を公開!

長瀬高浜遺跡ってどんな遺跡?埴輪の妖精きぬちゃんと、当財団の調査員羽久津(はくつ)さんがわかりやすく解説します。ぜひご覧ください!

→画像をクリック!※youtubeに移動します。

<前編>10分40秒

<後編>10分50秒