越敷山古墳群(金廻地区)の発掘調査を開始しました。
昨年、平成23年度には、越敷山75、76、121~123号墳、49号墳、99号墳を発掘しましたが、今年度は新たに51号墳(円墳:直径約25.0m)と77号墳(円墳:直径約12m)を調査します。
この古墳群は鳥取県西部を流れる日野川の左岸沿いの尾根上にあり、51号墳や77号墳は、標高約110mと最も高い場所に築かれています。
特に最大規模の51号墳からの眺望は優れており、眼下に日野川、東に大山、北に日本海を望むことができます。
越敷山古墳群(金廻地区)の発掘調査を開始しました。
昨年、平成23年度には、越敷山75、76、121~123号墳、49号墳、99号墳を発掘しましたが、今年度は新たに51号墳(円墳:直径約25.0m)と77号墳(円墳:直径約12m)を調査します。
この古墳群は鳥取県西部を流れる日野川の左岸沿いの尾根上にあり、51号墳や77号墳は、標高約110mと最も高い場所に築かれています。
特に最大規模の51号墳からの眺望は優れており、眼下に日野川、東に大山、北に日本海を望むことができます。
越敷山51号墳の墳頂部で、埋葬施設を確認しました。長さ6.0m、幅4.5mほどの大きさで、平面の形状は楕円形をしています。80㎝ほど掘り進めると、棺の蓋石がみつかりました。
蓋石は2枚あり、1枚の大きさは長さ1.5~1.7m、幅1mほどのものです。重量は400~600㎏と想定されます。石の継ぎ目には10~20㎝の礫が5つ置かれていました。
越敷山51号墳頂部でみつかった埋葬施設の蓋石を取り外しました。
蓋の下には、長さ2.2m、幅0.7mの箱式石棺がありました。
棺の内側は赤色に彩られており、棺の床には礫が敷かれていました。
そして、驚いたことに、棺内からは5体の人骨が見つかりました。
このうち2体は足の骨しかなく(4号、5号人骨)、別の2体は、頭蓋骨に白骨化した後に塗布した赤色顔料が付着していました(2号、3号人骨)。
また、2号人骨は足の位置をずらされ、3号人骨は棺の脇に寄せられていました。おそらく追葬が行われたものと考えられます。ほぼ完全な状態で残っていた1号人骨が最後に埋葬された人物と考えられます。
棺内には、鉄剣、鉄刀、鉄鉾、鉄斧、竪櫛、勾玉、管玉などの副葬品がありました。遺物の特徴から5世紀前半ごろの古墳と考えられます。
越敷山51号墳は直径約25mと金廻地区の古墳群の中で規模が最大であること、埋葬施設の規模や副葬品の豊富さが他の古墳を凌駕していることから、この古墳群で一番重要な人物が埋葬された古墳と思われます。
越敷山51号墳で新たな埋葬施設がみつかりました。長軸1.7m、短軸0.45mほどの箱式石棺からは人骨1体が見つかりました。副葬品はありません。
この古墳群に埋葬された人骨は頭を大山に向けていることが特徴なのですが、この石棺に埋葬された人物は大山をまったく意識しない方向に葬られていました。
越敷山77号墳の墳丘の掘削が終了しました。77号墳は直径約12mの円墳で、49号墳の後につくられた古墳です。
墳頂部には板石を組み合わせた1基の箱式石棺がありました。
この箱式石棺を納めるために掘られた墓壙は、掘り方が長軸約2.3m、短軸約1.3m、深さ約0.35mあり、箱式石棺は長軸約1.7m、短軸約0.4mの大きさでした。残念ながら、蓋石が動かされており、人骨も、副葬品もありませんでした。
墳丘は60㎝ほど土が盛られていましたが、この盛土の下からは弥生時代後期の竪穴住居跡がみつかりました。
77号墳を築造する前は、埋没しかけた竪穴住居跡が窪んだ地形となっていたと思われますが、墳丘を構築する際、一旦平らにするなど整地は行わず、窪地の上に盛土をして墳丘をつくっていました。
49号墳や51号墳に比べて、簡略に墳丘をつくっているようです。
越敷山77号墳の下からみつかった竪穴住居の調査が終了しました。
竪穴住居は直径約5m、深さ約0.7m、平面形が隅丸方形をした住居で、弥生時代後期(3世紀頃)のものです。4カ所に柱穴があり、床面の中央にピットがありました。
また、51号墳は墳丘を掘削しました。その結果5体の遺体がみつかった埋葬施設は、墳丘を盛る過程で設置していたことがわかりました。
古墳を構築する工程は次のとおりです。
①石棺を設置するための土坑を掘り、石を据えます。
石棺を据える際には、組み合わせやすいように調整したと思われ、調整時にでたと思われる石の破片が石棺の周囲に散らばっていました。石の破片の中には赤色顔料を塗ったものがあり、この時にすでに石棺内は赤く塗られていたものと思われます。
②墳丘を構築するために周囲に土を盛り、ドーナツ状の土手を築きます。
③土手の内部を埋めていきます。その際、埋葬を行い、蓋石をしました。
④さらに盛土を行い、古墳が完成です。
⑤その後、しばらくして、追葬を行いました。
古墳の構築から追葬の過程を追うことができる大変興味深い古墳です。
昨年度調査した越敷山49号墳(直径約20m、高さ約1.9m、円墳)の墳丘盛土の下にも弥生時代後期(3世紀頃)の竪穴住居跡(0002竪穴住居)がありました。
この竪穴住居跡の大きさは、直径5.5m、深さ0.8m、形状は隅丸方形で、柱穴は4基あり、中心にはピットがありました。中央のピットの周囲には炭が広がり、焼土面が3か所にありました。
竪穴住居内に堆積した土を観察すると、人為的に埋めたと思われる1~4cmほどのロームブロックを多く含む土が床面から検出面にかけて厚く堆積していました。
この竪穴住居跡も廃絶後、埋没があまり進まず、窪地となっていたようです。
49号墳を構築するさい、窪地は埋め立てられたものと想定されます。
日野川河口を眺望する場所にあること、標高約110mと高所にあることから、いわゆる高地性集落と思われます。