2011年7月26日

 墨書土器が出土している3区西端の溝から、今度は木製の形代(かたしろ)が出土しました。
 形代とは、おもに人の代わりに災いを背負ってくれるとされたまじないの道具で、人の形をかたどった人形(ひとがた)以外にも馬や鳥、舟など人と関わりの深い動物やものをかたどっています。
 今回みつかったのは馬形(うまがた)です。薄い木の板を加工して横からみた馬の姿を表現しており、写真右側が頭で、左側が尾となります。頭部には径2ミリ程度の小さな穴をあけた後、木釘を打った“目”と、切れ込みによる“口”、さらに墨書で馬具の“轡(くつわ)”が表現されています。
 馬形は、人の災いを背負った人形を他界へ運ぶ役割を果たしたと考えられています。




↑墨書土器「下内」

↑墨書土器「大内(?)」
2011年7月14日

 また墨書土器が出土しました。今回みつかった土器には門ではなく、“下内”や“大内(?)”と書かれており、どちらも奈良時代の土器です。
 
 これらがどのような意味をもつのか、遺構の調査成果とあわせて検討していきたいと思います。
2011年7月11日

 3区では、続々と墨書土器がみつかっています。
 最も多く書かれている文字は“門”で、新たにみつかった右の写真の土器にも“門”が書かれていました。

 ところで、写真の土器は上が奈良時代(約1250年前)、下が平安時代(約1150年前)のものです。
 先日紹介した文字も、“門西”が奈良時代、“門東家二”が平安時代の土器に書かれていました。
 奈良時代から平安時代にかけて、ここには門をそなえた重要な施設が長期間存在したのではないかと推測しています。

↑墨書土器「門」(奈良時代)

↑墨書土器「門」(平安時代)

↑墨書土器「門西」

↑墨書土器「門東家二」
2011年6月30日

 3区の西端でみつかった溝を掘り下げていると、墨で文字が書かれた「墨書土器(ぼくしょどき)」が出土しました。
 坏(つき)というお茶碗のような土器の底面に“門西”、“門東家二”と書かれており、どちらも平安時代(約1200年前)のものです。

 この溝からは墨書土器以外にもたくさんの遺物が出土していますが、特に溝の東側に集中するようです。
 溝の東岸では建物の柱穴がたくさんみつかっているため、そこで使われていた土器ではないかと考えられます。文字を使いなれていた役人や貴族などが住んでいたのでしょうか。
 これらの土器に書かれている“門”が調査地のどこかでみつかるかどうか、ご期待ください!
 
2011年6月28日

 3区では、調査地の西端で南北に流れる溝が見つかりました。溝に堆積した土から、奈良時代から平安時代(約1300年〜1000年前)にかけての土器が毎日多量に出土しています。
 なんと、この日は土器だけでなく、首飾りなどに用いられる管玉(くだたま)も出土しました!他にもまだあるかもしれませんので、念のため付近の土を持ち帰って水洗いしてみます。
 暑い中での作業が続きますが、こうした小さな遺物も見逃さない作業員さんの集中力には脱帽です。
 


2011年6月24日

 2区で見つかった室町時代頃(約600年前)の田んぼのさらに下層から、南から北に流れる水路が姿を現しました。
 水路に堆積した土から土器などの遺物が出土していないため時期はわかりませんが、室町時代よりも古い田んぼの用排水路と考えられます。昔の地形にそって蛇行しており、田んぼの区画は室町時代のものとは異なるようです。
 
2011年6月10日

 1区の調査が終了し、2区で室町時代頃(約600年前)の田んぼがみつかったため、ラジコンヘリで航空写真を撮影しました。

 1区では、時期不明の柱穴が複数見つかったほか、古墳時代(約1400年前)から江戸時代(約300年前)までの土器が出土しました。








 2区では棚田状の田んぼがみつかりました。室町時代頃の田んぼと江戸時代以降に作られた田んぼは、区画の場所や方向が異なることがわかってきました。
 この下には、さらに古い時代の田んぼが存在することがわかっています。
 周辺の水田がどのように開発されてきたのか、その歴史を明らかにしていくことができそうです。

↑1区全景(上が南)

↑2区全景

↑2区で見つかった中世の田んぼ
2011年5月24日

 GW明けから表土の機械掘削を始めました。土の堆積状況を観察しながら慎重に掘り下げを進めます。


 作業を進めていたところ…今日はかわいいお客さんが見学に来てくれました!みなさんもぜひ発掘現場に見学におこしください。


かわいいお客さん☆
2011年4月25日

 良田平田遺跡の発掘調査前の状況をラジコンヘリコプターで撮影しました。天気も良く、湖山池や青島もきれいに見えます。
 さあ、いよいよ調査開始です!