2022年3月15日
今回撮影しているのは、遺物の立面写真です。立面写真とは、遺物を立てて横から撮影する、一般的な撮影方法です。
遺物を撮影する台に工夫があります。イラストのように台の後ろから、ロールの背景紙を延ばして手前に垂らします。背景紙は適度にたわませて、後ろに映る影の濃さを調節します。ライトは斜め前方からの光に加えて、器の縁の内側と背景を明るくするため、上からも光を当てます。カメラから遠いほうには光が十分に届かないので、反対側に発砲スチロールの板(レフ板)を立てて、光を補います。
ここまでは前回紹介した、俯瞰(ふかん)写真の撮影と同じですが、立面写真で最も苦労するのがピント合わせです。写真4の木器のように前後に長い遺物を斜めから撮影する場合、手前にピントを合わせると、後ろの方はピンボケしてしまいます。そのため、一眼レフカメラの場合、撮影対象の全体にピントを合わせることができる「アオリ」という機能を持つ特殊なレンズを使用したり、カメラの絞り値を上げてピントが合ったように見える範囲(被写界深度)を前後に深くとるとか、高い位置から撮影することで遠近を少なくするとか、様々な工夫をしながら撮影しています。
このような苦労の末に撮影した写真は報告書に掲載されます。今作成中している報告書は来年度に刊行される予定です。これまで刊行された発掘調査の報告書については、お近くの図書館などで見ることができますので、ぜひ一度手に取ってみて下さい。
2022年2月3日
財団調査室では、現在、発掘調査報告書に掲載する遺物の写真撮影を行っています。
報告書とは、残すことができない遺跡の詳細な情報を記録した本のことで、失われた遺跡の代わりとして、後世まで保管されます。
今撮影しているのは、昨年度に調査した石塚廃寺東遺跡から出土した瓦や土器です。残りのよい土器など、ある程度高さのある遺物の写真は、底を下にして置いて横から撮影する「立面写真」が一般的ですが、瓦や土器の破片など、横から撮影できない遺物は、台の上に並べて真上から撮影します。これを俯瞰(ふかん)写真といいます。
報告書に掲載するためには、遺物の細かな特徴が表現された精度の高い写真が必要です。そのような写真を撮影するには、カメラや三脚、ストロボフラッシュに加えて、遺物を乗せる専用の台が必要になります。今回はコンテナボックスとケント紙、ガラス板などで手作りしました。
写真1は、実際に瓦を撮影しているところ、イラストはそのイメージです。両側に高さ30㎝程のコンテナボックスを置き、その上にガラス板を水平に置いて撮影台とします。ガラス板の下の空間は白いケント紙で囲み、背景とします。写真2のようにガラス板の上に瓦を置いて、カメラを瓦の真上にセットし、台の中と前の方からストロボ1と2を同時に発光させてシャッターを切ります。
ストロボ1は、正面のやや低い位置から対象遺物に光を当てます。ストロボ2は、背景を明るく照らしてきれいな背景にするため、ガラス板の下で発光させます。
斜め上からストロボ1の光を当てることには、二つ意味があります。一つは低い位置から光を当てると、遺物の表面の細かな凹凸が見やすくなり、立体的な写真になること、もう一つは真上から光を当てると下に影ができますが、斜めから光を当てると、影を写真の範囲から外れた場所に逃がすことができるのです。ただし、ストロボから遠いほうは光が十分に届かないので、ストロボ1と反対側に発砲スチロールの板(レフ板)を立てて、光を反射させて光を補います。
こうして撮影したのが写真3・4のような写真です。これらの写真は色や明るさを補正して報告書に掲載されることになります。
次回は、立面写真など、写真撮影の別の方法についてご紹介します。お楽しみに。
2022年1月14日
大鴨遺跡の発掘調査は終了しましたが、今回は道路遺構の調査成果を振り返ります。
大鴨遺跡4区では、調査区の中央を南から北へ縦断するように流れていた奈良時代の流路の東西両側で、構造の異なる道路遺構が見つかりました。これらの道路遺構は、出土した土器から、調査区の北西側にあった石塚廃寺が存続していた時期とほぼ同じく、奈良時代から平安時代(10世紀頃)にかけて使われていたと考えられます。
流路西側の道路遺構は、幅が2~3mあり、いずれも西から東方向に下って奈良時代の流路まで続いています。路面には、写真1・2のようにびっしりと小石が敷いてありました。写真2の道路では、波板状凹凸面をもつ道路から石敷の道路へ改修された様子がわかりました。波板状凹凸面とは道路遺構に伴う楕円形の凹凸が連続する面で(イラスト参照)、性格は(1)枕木の痕跡、(2)道路の基礎、(3)足掛け、(4)自然発生的なもの、(5)牛馬の歩行痕跡など諸説あります(近江2006)。昨年度の調査でも、波板状凹凸面をもつ東西方向の道が見つかっています(写真3)。
これらの道路は、石塚廃寺(及び関連施設)と流路とを結ぶ道と考えられますが、ほぼ100mの間隔で東西方向に延びる道路が3本並んでいることから、土地区画の意味もあるのかもしれません。
流路の東側からは、流れに沿うように南北方向の道路遺構が見つかりました。これは令和2年度に調査した南側の調査区(大鴨遺跡1区)の道路遺構から続いており、令和3年度分と合わせて120mもの長さを確認しました。こちらでも波板状の凹凸面が見つかっています。この道は東西方向の石敷きの道路に比べて簡素な造りで、直線的ではなく流路東岸に沿うように屈曲していることから、東西方向の道に対して、日常的に使われる道と考えられます。
昨年の12月で現地調査は終了し、現在は整理作業や報告書作成を行っています。次回からは、作業の様子や新たに分かったことを紹介していきます。お楽しみに。
参考文献:近江俊秀『古代国家と道路』2006年、青木書店
2021年12月7日
このたび、大鴨遺跡の発掘調査が無事終了しました。
2年間にわたる調査期間中、地元の皆様、関係諸機関の皆様をはじめとする多くの方々からご理解・ご協力をいただきました。改めて御礼申し上げます。
これで、国道313号の道路改良工事に伴う発掘調査はすべて終了し、今後は石塚廃寺東遺跡(令和2年度調査)及び大鴨遺跡(令和2・3年度調査)の出土品の整理作業と調査報告書の作成を進めていきます。
これまでお伝えしきれなかった調査成果や整理作業で新たにわかったことなどをこれからもご紹介していきたいと思いますので、引き続きご注目ください。
※今年度調査の成果をまとめた資料をこちらからダウンロードできます。→調査成果説明資料(PDF形式:1.96MB)
2021年11月15日
大鴨遺跡4区では、現在ロームと呼ばれる火山灰の上面にある遺構を調査しています。
ここからは、黒ボクと呼ばれる真っ黒な土で埋まった穴が2基見つかりました(写真1)。
この穴は平面や断面の形から、縄文時代に動物を獲るための「わな」として使われた、「落とし穴」と考えられます。このような落とし穴は、これまでに県内でも大山周辺を中心として数多く見つかっています。
今回見つかった落とし穴は、長径85~100㎝、深さ95~120㎝で、底の中央には、直径約15㎝、深さ約20~30㎝の小さな穴がありました。
この小さな穴には先を尖(とが)らせた杭を立てて、穴に落ちた獲物にケガをさせて弱らせ、仕留めやすくしたと考えられます。その杭を固定するために、根元には粘土を詰めることもありますが、ここでは小石を数個並べて杭の根元を固定していたようです(写真2)。
このような落とし穴を、けもの道や動物が活動する範囲にいくつも掘り、木の枝や草などで見えにくくして、落ちるのを待つか、あるいは追い込んで獲物を捕らえたのでしょう。
今回見つかった落とし穴は、丘陵裾の水場に水を飲みにやってくる動物をねらったと考えられます。また、去年と今年の調査では、矢の先に付ける矢じり(石鏃)がいくつも見つかっています。遺跡の周辺は、縄文時代にはこのような「わな」や「道具」を使った狩猟の場であったことが想像できます。
調査期間も残りわずかとなりました。12月はじめの現地調査終了まで、ラストスパートで走り切ります。
2021年11月5日
大鴨遺跡4区では、鎌倉時代の掘立柱建物や田んぼの痕跡を調査しています。
掘立柱建物は、3棟が見つかりました。これらの建物は、昨年度の1区の調査で見つかった5棟の建物群から30m程北に位置しています。建物の時期を特定できる遺物は出土していませんが、昨年度調査した1区の遺構面の続きで、柱穴も同じ灰褐色の土で埋まっていました。周囲からは鎌倉時代の土器や陶磁器(写真4)が出土しました。建物の大きさは1間×2間~2間×2間、柱穴は素掘りで直径が20~40㎝ほどと小さいことから、大きな建物ではなく、納屋や作業小屋などの簡易的な建物だったのかもしれません。
建物の北側からは、南北約40mの範囲で、5つの区画をもつ田んぼが見つかりました。田んぼは現在と同様に畦畔(けいはん)と呼ばれる「あぜ」で区画されています。ほとんどの区画はわずかな「あぜ」の痕跡しか残っていませんでしたが、北側では南北方向に延びる10㎝程の帯状の高まり(写真1・2)が確認できました。
写真3には溝のような跡が並んでいる様子が写っています。いずれも深さは数センチ程ですが、これは畑を耕作した時に地面を深く耕した際の鋤の痕で、田んぼに近接して見つかりました。
このように、昨年度・今年度の調査成果からは、屋敷の北側に簡易な建物があり、さらにその北側に田んぼや畑が広がるという、中世の景観が復元できそうです。
調査も残り一ヶ月となりました。次は何が見つかるでしょうか。お楽しみに。
2021年10月7日
大鴨遺跡4区の竪穴建物から、土製支脚(どせいしきゃく)と呼ばれている土製品が出土しました。
イラストは土製支脚の使われ方を推定したものです。2つまたは3つをセットに向かい合わせ、その上に甕などを載せ、下から火を焚いて煮炊きをするために使用した、いわゆる「五徳(ごとく)」と考えられます。
土製支脚は、古墳時代から奈良時代頃まで使われていましたが、この支脚は奈良時代前半(8世紀前半)頃の竪穴建物から出土しました(写真1)。建物のほぼ中央には火を焚いた場所があり、ほかに須恵器の坏(つき)や高坏、移動式の「かまど」の破片などが出土しています。建物の中には造り付けの「かまど」はなく、こうした土製支脚や移動式の「かまど」を使って煮炊きをしていたようです。
今回出土した土製支脚(イラストの右側)は、把手(とって)を持ち(写真2)、底のない筒のような形(写真3)のタイプですが、イラストの左側は棒状の突起のみで把手はなく、本体部分は粘土の塊で中空にはなっていません。実は左側の方が土製支脚として一般的な形で、今回出土したものはかなり珍しいタイプです。大鴨遺跡周辺では、大正時代に倉吉市の不入岡(ふにおか)で同じ形のものが発見されています。
土製支脚は地域ごとに特徴的なタイプがあるようです。例えば把手を持つものは倉吉市周辺(東伯耆)の他、米子市の福市遺跡や島根県安来市の渋山池遺跡といった西伯耆から東出雲にかけて、中空のものは倉吉市以外には鳥取市気高町の会下・郡家(えげ・こうげ)遺跡など東伯耆から西因幡にかけて分布しています。
現在、鳥取市国府町にある鳥取県埋蔵文化財センターでは、土製支脚をテーマとしたロビー展示「鳥取の土製支脚-支脚に見る鳥取の東・中・西」」を開催していますので、この機会にぜひご覧ください。
調査も残り2か月となりました。次は何が見つかるでしょうか。お楽しみに。
2021年9月7日
大鴨遺跡4区では、古墳時代の竪穴建物を2棟、同時に調査しています。このうち写真の竪穴建物は、一辺が5メートル程の大きさです。古墳時代の初め(およそ4世紀前半)のものです。
竪穴建物のような遺構を見つけるためには、調査地内の土の表面をきれいに削ることから始めます。当時地面だった土と、遺構内に溜まった土とは色やしまり具合等が異なるので、土の違いが建物跡の輪郭として見えてきます(写真1)。遺構が見つかった時の状況は写真を撮影して記録します。これくらいの大きさの建物では、地上からでは全体の形が分かる写真は撮影できないので、専用のやぐらを建てて、その上から撮影します(写真2)。写真撮影後、どのように埋まったのか観察できるように、土の土手を残しながら掘り下げます(写真3)。柱の穴や床の周囲を巡る溝(壁溝・へきこう)についても同じように掘り下げ、どのような埋まり方をしたのかを記録します。
建物の中からは壺や甕などの土器、砥石や台石などの石器など、多くの遺物が出土したので、出土状況を撮影し、出土位置を電子測量機器で記録して取り上げました。
写真4は建物内の全ての土を掘り終わった状態です。形は四隅がカーブする隅丸(すみまる)方形、四隅近くの四本柱で屋根を支える構造で、中央やや東側に中央ピットという用途不明の穴があります。西(右)側の辺がやや丸く出っ張っていますが、ここには壁溝が2条あるため、建物の床面が、内側から外側へ拡張されたことが分かりました。もしかすると子どもが増えて手狭になったため、床を拡げたのかもしれません。
調査終了後には、建物の図面や写真、出土した遺物を整理して報告書に掲載し、調査や研究に役立てます。
ようやく暑さも落ち着いてきました。次は何が見つかるでしょうか。お楽しみに。
2021年8月18日
財団調査室では、調査現場で発掘作業を行っていますが、事務所では、大鴨遺跡4区の整理作業とともに、昨年度に調査した石塚廃寺東遺跡と大鴨遺跡1~3区の報告書作成に向けた整理作業に取り組んでいます。
フェイスブックでもご紹介した、軒丸瓦の右側の紙は「拓本(たくほん)」です(写真1)。拓本というのは石に刻まれた文字などを、紙と墨などでそのまま写し取る方法で、古くから行われていました。
拓本には大きく二種類あり、コインなどの上に紙を置いて柔らかい鉛筆でこすって、文字や絵を写し取る方法を「乾拓(かんたく)」といいます。軒丸瓦で行っているのは、水で湿らせた紙を貼り付けて、墨で文様を写しとる「湿拓(しったく)」です。
準備するのは、墨、タンポ(墨を含ませるため、綿などを丸めて布で包んだもの)、画仙紙(がせんし)という和紙、霧吹き、脱脂綿などです(写真2)。方法は、1.画仙紙を対象に当てて固定する、2.霧吹きで紙を湿らせ、紙と対象の間の空気を抜いて密着させる、3.墨を含ませたタンポで、紙に薄い墨をムラのないように、何度もつけていく(写真3)、4.拓本を外して新聞紙などの間に挟(はさ)み、シワを伸ばしながら乾かす(写真4)、です。
写真5は軒平瓦の実物(下面を上に向けています)と拓本です。右が下面、左が上面、下が軒先です。写真では見えにくい文様が、白と黒のコントラストで、はっきりと表現できました。
このように作成した拓本は、実測図の一部として報告書に掲載され、調査や研究に役立てます。皆さんもぜひ、お近くの図書館などで報告書を手にとってみてください。
次回は再び、大きな遺構の調査についてご紹介する予定です。
2021年8月6日
連日、猛暑が続いていますが、大鴨遺跡4区の発掘調査は順調に進んでいます。
調査のはじめに行うのは「包含層」という「遺物(いぶつ)」(土器や石器など)を含んだ層を掘り下げて、その下にある人々の活動の痕跡である、「遺構(いこう)」(建物跡、溝、穴など)を探す作業です。
遺構をみつけようとする層の表面を平らに削っていくと、土の違いによって遺構の輪郭が見えてきます(写真1)。見つけた遺構は、測量や写真撮影を行った後、慎重に掘り下げます。ただし、始めから全ての土を掘りあげてしまうのではなく、その遺構がどのように埋まったのかを観察できるように土の土手を残しながら掘り下げます(写真2)。
埋まった順序を確認し、埋まった順序を逆にたどるように、最後に埋まった土から下に向けて掘り下げます。遺物が出土することも多いので、その都度、図面や写真で記録をとりながら調査を進めます。
今見つかっている遺構は、竪穴建物、掘立柱建物、溝、土坑(穴)、足跡を含む耕作痕などです。
写真3・4は今回の調査で、溝の中から見つかった遺物です。写真3は底の部分が欠けていますが、円盤状の器に把手(とって)と注ぎ口の付く、須恵器の平瓶(ひらべ・ひらか)という、酒や水を入れたと考えられる器です。奈良時代、8世紀頃のものです。写真4は口の部分が少し欠けていますが、食材を盛りつけたとみられる土師器の坏(つき)です。平安時代、9世紀頃のものです。
これらの土器は、当時の生活を復元するための資料として実測や写真などの記録を作成し、報告書に掲載して調査や研究に役立てます。
次は、実際に遺構を掘っている様子についてご紹介しますので、お楽しみに。
2021年7月16日
前回ご紹介した足跡ですが、調査を進めるにつれて数が増え、足の踏み場もないほどの足跡が見つかりました(写真1)。そこで形が分かるもののいくつかに石膏を入れ、型どりしてみました。
準備したのは、石膏、水、タッパー(写真2)、スプーン等です。まず、(1)タッパーに水を入れ、その中に同量の石膏を少しずつ加えていきます。(2)タッパーを揺らして空気を抜き、スプーンで空気を含まないように軽く混ぜます。(3)足跡に石膏を流しこんで30分程かけて固まるのを待ちます。(4)周囲を掘り下げて石膏を取り出します(写真3)。(5)土を落とし、不要な部分を取り除きます。
写真4は、取り出した石膏です。右の2つは手前が二つに分かれており、「偶蹄目(ぐうていもく)」である牛の足型です。左は手前の幅が広く、くびれながら細くなっているので、人の足型です。
これらの足型は、いずれも先端(つま先)が深く、後ろ(かかと)が浅く、つま先立ちの状態です。よく見るとそのほかの足跡の多くも、つま先立ちと考えられます。田のようなぬかるみでは、その方が歩きやすいのでしょう。
この石膏は当時の牛や人の体格を示す資料として調査研究に役立てるほか、機会があれば他の出土品と一緒に展示したいと考えています。その際にはぜひご覧ください。
調査現場は先日の大雨で水に浸かってしまいましたが、幸いにも調査中の遺構が被害を受けることはありませんでした。これから復旧の作業をしつつ、調査を進めて行く予定です。
次は何が見つかるでしょうか。お楽しみに。
2021年7月2日
大鴨遺跡4区では、北側から順次穴や溝などの遺構を探す作業を行っています。小さな道具で地面を平らに削っていくと、砂の集まりがいくつも見つかりました(写真1)。形が分かるものは少ないですが、写真2は見つけた時、写真3は砂を取り除いた写真、写真4は砂を半分掘った写真です。
これらは動物や人の足跡です。写真3を見ると左右に2つのくぼみがあり、どうやら動物の「ひづめ」のようです。「ひづめ」が一つの動物は「奇蹄目(きていもく)」と呼ばれる馬やロバ、二つに分かれている動物は「偶蹄目(ぐうていもく)」と呼ばれるイノシシやシカ、牛、ヤギなどです。なお写真4は人の足跡で、左側がかかと、右側がつま先で、長さは25センチ程です。
足跡が残されていたのは、水を含むと柔らかくなる粘土質の土の上で、昔は田んぼとして使われていたようです。近くから鎌倉時代の土器の破片がいくつか出土しています。農作業の直後に大水が起こり、くぼみが砂で埋まったため、数百年前の足跡が形を保ったまま残されたと考えられます。
さて、これらの足跡を残したのはどんな動物なのでしょうか?
「ひづめ」が二つに分かれているので偶蹄目の動物で、人の足跡と一緒に田んぼで見つかっていることから「牛」と考えられます。人と犂(すき)を引く牛が一緒に田んぼを耕して田植えの準備をする、日本の伝統的な農村の風景が目に浮かぶようです。
次は何が見つかるでしょうか。お楽しみに。
2021年6月7日
(公財)鳥取県教育文化財団調査室では、昨年度に引き続き、一般国道313号(倉吉関金道路)の道路改良工事に伴う大鴨遺跡(倉吉市福山地区)の発掘調査を6月1日から開始しました。
今年度調査する大鴨遺跡4区は、昨年調査した1区と2・3区との間にあり、8千㎡を超える広さです。
昨年度の調査成果から、南側では鎌倉時代の建物や室町時代の墓、古代の道路遺構の延長部など、北側では石塚廃寺に関連する奈良から平安時代の建物や古代の流路、弥生時代の集落などの発見が期待されます。
発掘調査は、3人の担当職員が支援業者の協力を得ながら12月初旬頃まで行う予定です。地下から何が出てくるのか、どんなことが明らかになるのか楽しみです。これからも随時情報を更新していきますのでお楽しみに!
写真1 機械による表土掘削の様子 写真2 北東上空からみた調査区周辺(令和2年度撮影)
遺跡位置図調査範囲図
2021年5月26日
今回は昨年度の調査で、大鴨遺跡3区の竪穴建物2から出土したミニチュア土器を紹介します。
奈良時代の竪穴建物2の南東側から、「ミニチュア土器」(写真1)という、手のひらサイズで、お祭りのために作られたと考えられている、およそ実用には適さない土器がいくつも出土しました。
建物の床面よりやや高い位置から出土したので、建物が埋まっていく過程で生じた窪みに捨てられたのかもしれません(写真2)。なぜこの場所には、たくさんのミニチュア土器が捨てられたのでしょうか?
写真3は、建物の床面まで掘り下げたときのものです。床面の一部が焼けて赤くなっており、黒い炭がたまっていたところもあります。床面の近くから、鉄を加工する時に出る不純物の塊が見つかったことから、この建物では高熱で鉄を加工する「鍛冶(かじ)」を行っていた可能性があります。そこで床面の上に残っていた土を調査室に持ち帰り、現在、水で洗って鍛冶に関係する細かな遺物の有無を確認しているところです。
いよいよ6月から、大鴨遺跡3区の南側に設定した4区の発掘調査が始まります。今回は何が出てくるのか、またお伝えします。お楽しみに。
2021年5月12日
今回は昨年度の調査で、石塚廃寺東(いしづかはいじひがし)遺跡と大鴨(おおがも)遺跡から出土した遺物の中から担当者オススメの品をいくつか紹介します。
1 黒色土器と緑釉(りょくゆう)陶器(写真1)
石塚廃寺東遺跡のP2区と大鴨遺跡3区の調査中に出土しました。
左は低い高台の付いている椀で、内面を黒くいぶして、ヘラでこすって光沢を出しています。
右は京都で作られた陶器の椀の口の破片です。鉛を釉薬として、緑色に発色させています。どちらも平安時代、10世紀頃のものです。
これらの器は一般的な集落からはあまり見つからない高級品です。北側に位置する石塚廃寺がこの頃まで存続しており、そこで使われていたのかもしれません。
2 古代の甕(写真2・3)
大鴨遺跡2区の奈良時代の流路から変わった形の甕(かめ)が見つかりました。この時期の甕は丸底が一般的ですが、この甕の底は平らで、まるで中ほどを水平に切って、下半部を取り除いたような形です。外側の底近くには作った際についた指の痕が残ったままで(写真2)、内側の底には粘土の固まりがいくつも残っています(写真3)。よほど急いで、平らにしなければいけなかったのでしょうか。あるいは煮炊き用とは異なる特殊な用途の甕だったのかもしれません。
3 中世の土器(写真4)
どちらも大鴨遺跡1区で見つかった土器の皿です。左はロクロを使わずに手で粘土をこねて作った皿に高台を貼り付けています。鎌倉時代、13世紀頃のものです。掘立柱(ほったてばしら)建物すぐ横の柵列の柱穴から出土しました。割れた部分はなく、使われていたままの形です。
右は火葬墓から出土した皿です。頭部の横に供えられていました。細かく割れていたものを、破片を見つけてつなぎ合わせました。室町時代、15世紀頃のものです。