機械掘削を開始しました。
遺跡の表面を覆う新しい土は、ショベルカーで掘っていきます。
ショベルカーには調査員が付き添い、掘削中に土器などが出土しないか、遺跡の古い地層を傷つけないか、注意しながら指示を出していきます。
高住井手添遺跡の地下には、どのような歴史が眠っているのでしょうか。
明らかになった成果は、このページに掲載していきますので、お楽しみに!
機械掘削を開始しました。
遺跡の表面を覆う新しい土は、ショベルカーで掘っていきます。
ショベルカーには調査員が付き添い、掘削中に土器などが出土しないか、遺跡の古い地層を傷つけないか、注意しながら指示を出していきます。
高住井手添遺跡の地下には、どのような歴史が眠っているのでしょうか。
明らかになった成果は、このページに掲載していきますので、お楽しみに!
機械掘削も終了し、発掘作業員さんたちの人力掘削が始まりました。
まずは、遺跡に堆積する地層の状況をみるため、調査区の端や中央部を溝状に掘り下げます。
この掘り下げ作業中に、多量の土器や石器が出てきました。
私たちを驚かせたのは、その量もさることながら、その古さ。
まだはっきりとわかりませんが、土器の特徴から、縄文時代中期頃(約5500~4500年前)のものと考えられるのです。
その頃は、遺跡のすぐ北にある湖山池は、日本海の一部であったと考えられ、海に面した縄文時代のムラがあったのかもしれません。
これからの発掘で徐々に明らかにしていきたいと思います。
たくさんの土器片の中には、「縄文土器」の名の通り、縄を押しつけた文様を持つもの(①)のほか、変わった文様を持つものもあります。
作業員さんに「魚の骨の化石」と呼ばれていた土器(②)は、言われてみればまさにその通り。
あまり見慣れませんが、土器の表面を板状や棒状の工具で突っついてつけられた文様のようです。
土器の文様は、当時の人々にとってどのような意味を持っていたのでしょうか。
今となっては知ることはできませんが、美しく飾られた土器が出るたびに、思わず見惚れてしまいます。
発掘現場からは、縄文土器に混じって、写真のような丸い石がいくつもみつかっています。
一見どこにでもある川原石のようですが、それぞれ上と下が少し欠けているのがわかりますか?
これは「石錘(せきすい)」と呼ばれる石器です。
石の両端の打ち欠いた部分に紐をかけて、魚を捕るための網などの「おもり」にしたと考えられています。
高住井手添遺跡の縄文人たちは、ムラの前に広がる海(いまは湖山池)で、魚を捕っていたのでしょうか。想像がふくらみます。
現在、縄文時代晩期(約3000年前)の川と考えられるところを調査しています。
川の中からは直径30cmほどの丸太が何本も出てきました。
木の多さからは、意図的に集められた可能性も考えられ、今後の調査で、加工の有無などを確認していきます。
川の中にある木の調査を進めていたところ、その間から植物のつるを使った編み物がみつかりました。
直径2~3ミリの細いつるをねじりながら編み合わせ、カゴのような製品にしています。
編み物は、3ヶ所からみつかっており、その周辺からはトチやクルミ、ドングリなどの木の実がたくさん出てきます。
こうした木の実(堅果類)は、中にいる虫を殺したり、アクを抜くために水にさらしたりすることから、「さらし場」を川の中に設けていたのかもしれません。
編み物の出土は、縄文時代の工芸技術を知る上で貴重な発見です。
たいへん壊れやすいため、一部は掘削中に取り上げましたが、今後は周りの木を除去しながら、丁寧に掘り出して、どのような形だったのか調べていきたいと思います。
縄文時代晩期の川の中から、みつかった木の実です。
実の中身の柔らかいところは、分解されてなくなっていて、強くさわるとへこんでしまいますが、殻にあたる部分はしっかり残っており、現代のものと見た目は変わりません。
ドングリやトチ、クルミなど、森で採れる堅果類ばかりで、周囲の森から集めてきたのかもしれません。
他にも、砂の中に木の葉が積み重なる場所がありました。取上げてみると、茶色い枯れ葉のような色が残っており、約3000年の時を経たものとは思えません。
豊かな森に囲まれた縄文時代のくらしが想い浮かびます。
以前の記事(2011年6月17日)で、編み物の出土をお伝えしましたが、川の中からはその後も編み物がみつかり、現在のところ6点を確認しています。
土に埋もれた際につぶれてしまってはいますが、形や大きさから「カゴ」と考えていいでしょう。
縦方向のツルを、横方向の2本のツルで挟みこむように編み、カゴの口に当たる部分は、ほつれないよう丁寧に仕上げてあります。こうした編み方は現代の編みカゴとほとんど変わりません。
状態も良く、約3000年も昔のものとは思えないほど。
カゴを手にした縄文人たちのくらしが思い浮かぶようです。
調査区の北端で、縄文時代晩期の川が埋まった後、その上に掘られた溝がみつかりました。
中からは、弥生時代後期(1800年くらい前)の土器の破片が出てきます。
また、この溝からは土器だけでなく、桃の種がたくさん出てきました。
その数は約30個。溝はまだ北側に延びるため、まだまだ増えるかもしれません。
神話における国生みの神様、「イザナギ」が桃を投げつけて「黄泉醜女(よもつしこめ)」を追い払ったように、桃は古代から魔除けの果実として知られています。
もしかすると、この溝はなにかのおまじないを行った跡なのかもしれません。
縄文時代晩期(約3000年前)の川からみつかる編み物は、さらに増え、現在は8点になりました。
今回みつかったカゴは、底と口の一部を失っていますが、とても残りがいいものです。
他のカゴとは異なり、少し太めの横材が編み込まれ、それがデザインとしてアクセントになっています。
現代でも通用しそうなおしゃれなカゴに、縄文人の高いデザインセンスをみることができます。
縄文時代晩期(約3000年前)の川の中からは、これまでもお伝えしてきたように、たくさんの木の実や、美しく編まれたカゴなどがみつかっています。
これまでにみつかった8点のカゴのうち、7点が写真1(南から撮影したもの)で赤く囲んだエリアから出土しており、偶然と言うには集中しすぎているような気がします。
赤丸で囲んだエリアの両端には、直径30~50cmくらいの木が川をふさぐように横倒しになっています。
これらの横木は、川の流れをせき止めたり、水を貯めるために縄文人が意図的に設置した可能性があり、その間を何かに利用していたと想定されます。
川の中からたくさんの木の実がみつかっていることも考えると、アクを抜いたり、実の中の虫を殺したりするために、カゴに入れた木の実を流水にひたしておく、「さらし場」があったのかもしれません。
写真2は写真1の手前の横木を、東から撮影したものです。
数本の木を並べており、木が流れていかないよう杭を打ち込んでいる場所もあります。
写真左下には、木の株が見え、根が張っています。
大きな木を何本も運ぶのは大変です。
これらの横木は、川の横に生えている木を切り倒して、設置したものかもしれません。
調査区南半部での調査もほぼ終了し、現在は調査区北半部の調査を進めています。
調査区北西部でみつかった溝の中からは、樹の皮が集中して出土しました。その特徴から、スギやヒノキのような針葉樹の樹皮と考えられます。
樹皮は溝の西端で見つかっており、流水による浸食を防ぐための護岸として敷かれた可能性があります。
周辺からは弥生時代中期(約2100年前)の土器がみつかっていますが、溝の規模が大きく、まだ全体的な調査ができていません。今後の調査でより詳細な年代や、樹皮の性格を確認していきます。
調査も進み、溝や土坑など、たくさんの遺構がみつかってきています。
左はこれまでにみつかっている遺構の状況を示した図面です。
この図面は、遺構の形や広がり、重なり方などを全体的に把握するためのもので、「地図」のような役割を果たします。
地中にどんな遺構や遺物が眠っているのかわからない遺跡内は、いわば「未踏の地」。
発掘調査が進むにつれ、「地図」には調査結果がどんどん書き込まれ、「未踏の地」の状況がだんだん明らかになっていきます。
調査区の北東隅でみつかった川を埋める砂の中から、たくさんの土器がみつかりました。
弥生土器と縄文土器が混じり合うように出てきており、弥生時代の初め頃(約2500年前)に埋まった川と考えられます。
残念ながら、川の上部は新しい時代(江戸時代~近代)の掘り込みで失われていますが、底に残る土器を慎重に掘り出していく作業を進めていきます。
調査で出土した遺物は、事務所に持ち帰って、泥汚れを落としたあと、接合します。
写真は、縄文時代晩期から弥生時代の初め(約2500年前)にかけて埋まったとみられる川から出土した土器のうち、変わった装飾を持つものです。
左はコブのような突起をいくつも付けた土器です。口の部分には、蓋を縛るための小さな穴が2つ開けられています。
右は美しい模様や刻み目で飾られる土器です。いずれも破片だけの出土のため、全体は復元できませんが、当時の人々の美意識や交流を考える上で重要な土器です。
遺跡の測量には、最先端の測量機器も使われます。
写真は3Dレーザースキャナという機械です。
レーザーの反射光で、測量するものまでの距離や角度を測り、遺跡の三次元画像を作ることができます。
作成した三次元画像です。
同時に撮影した写真データを読み込んでいるので写真のように見えますが、実態は何十万点もの測量点の集合になっています。
パソコンの中で様々な方向に回転させることができ、遺跡の地形や遺構の様子を詳細に記録することができます。
溝を丁寧に掘り下げていると、堆積した砂がマーブル模様のように見えることがあります。
これは水に流されてたまった砂のあとです。
これらを観察することで、溝の中をどのように水が流れたのかを知ることができます。
弥生時代中期(約2100~2200年前)の溝の中からは、木を組んだ構造物や、樹皮を敷いた場所があちこちでみつかっています。
これらは激しい水流で溝の肩が浸食されないための護岸と考えられます。
杭で板を留める「横矢板」は、溝内の2ヶ所でみつかっています。青谷上寺地遺跡でも同様の施設がみつかっており、当時の山陰地方の治水や土木技術を知る手がかりになります。
木製構造物の中からみつかる木材の一部には、もともと建築部材に使われていた角材などもあります。
写真の角材は、表面がカンナをかけたように滑らかです。右側は、燃えて黒く炭化しており、火事などで燃えた建物の部材なのかもしれません。
ラジコンヘリコプターで空中写真撮影を行いました。
写真1は遺跡を北方向から撮影したものです。
三山口川の流れる谷の中に遺跡が立地することがよくわかります。
写真2は遺跡を南東方向から撮影したもの。
湖山池と、その向こうには日本海が見えます。
こうしてみると、遺跡が湖山池のすぐそばにあることがわかります。
弥生時代中期(約2100~2200年前)の溝の中から、鍬の刃先がみつかりました。
普通は横になって出土することが多いのですが、3本の木製鍬が縦にぴったりとくっついて並んでおり、少し不思議な状況です(写真1)。
鍬を持ち帰り、洗ってみると謎が解けました。鍬には柄を取り付けるための「柄穴」が開けられておらず、未完成の状態で保管されていたと考えられますが、柄を取り付ける場所に沿って、小さな穴がひとつだけ開いています(写真2)。
この穴はみつかった鍬すべてに開けられています。
写真1では、ちょうどこの穴の場所を中心として、3本の鍬が立ち並んでいたことから、この穴を通して紐で縛るなどして3本の鍬を保管していたのでしょう。
古代の人々が未完成の農具を水につけて保管することは遺跡の調査でわかってきていますが、保管方法までわかる例は少なく、興味深い発見です。
縄文時代晩期(約3000年前)の川の底から出てきた大型の木材に、加工の痕跡らしいものがみつかりました。
木の切り口の下半分はギザギザですが、上半分はまっすぐ切り揃えられたようになっています。
木を切り倒す時についた伐採痕の可能性もあり、慎重に調査を進めています。
弥生時代中期(約2100~2200年前)の溝に設置された木製構造物の間から、杓子(しゃくし)が出土しました。
杓子は1本の木から削り出されたもので、お料理に使う「おたま」のような形をしており、「縦杓子」と呼ばれています。
柄は幅広の板状になっており、中程には線状の浮き彫りがあります。
2000年以上も前に、1本の木から道具を削り出すのは、どれだけ大変なことだったでしょう。
丁寧な造りに驚くばかりです。