高住宮ノ谷(みやのたに)遺跡(2区)の発掘調査が始まりました。
高住宮ノ谷遺跡は、鳥取市高住にある北野神社のすぐ南側に位置します。かつてこの付近で「銅鐸」どうたく)」という弥生時代の青銅製の祭りの道具が発見されたことがあります。今回の調査で銅鐸は発見されるでしょうか。
写真は、重機で表面の耕作土を取り除く作業風景です。
ゴールデンウィークを過ぎると発掘作業員さんが入り、本格的な発掘調査となる予定です
高住宮ノ谷(みやのたに)遺跡(2区)の発掘調査が始まりました。
高住宮ノ谷遺跡は、鳥取市高住にある北野神社のすぐ南側に位置します。かつてこの付近で「銅鐸」どうたく)」という弥生時代の青銅製の祭りの道具が発見されたことがあります。今回の調査で銅鐸は発見されるでしょうか。
写真は、重機で表面の耕作土を取り除く作業風景です。
ゴールデンウィークを過ぎると発掘作業員さんが入り、本格的な発掘調査となる予定です
表土を掘削していると、中からポロリと面白い形の壺が出てきました。
これは古墳時代終わり頃(約1,400年前)の𤭯(はそう)という土器です。
真ん中の孔に竹などを差しこんで、「注ぎ口」として使っていたと考えられます。
次は何が出るのか、楽しみです
高住宮ノ谷遺跡の地形が山あり谷あり田んぼありで複雑なため、重機による表土掘削に手こずりました。
重機の運転手さんもさぞ大変だったことでしょう
作業員さんがていねいに両刃鎌で遺跡の表面を削っていくと、直径20cm程の周りと色が違う土が何か所か見えてきました。
これは、昔の建物の柱の痕跡かもしれません。この後、慎重に中を掘って確かめていきたいと思います。
中世頃(約5~600年前)と推定される遺構の検出写真の撮影を行いました。
穴が多く見つかった写真奥の丘陵の部分(岩盤が露出)と、手前の低地部分(水田として利用したと推定)の土色の違いが一目瞭然です。
これから白線で囲った柱穴などを半分だけ掘り下げ、穴が埋まった状況を調べる作業を行っていきます。
3区は近世の耕作土までを重機で掘削しています。
その土の中から見つかった須恵器の蓋(約1,350年前)に、黒い漆で「×」印が描かれていました。
東隣の高住平田遺跡でも漆で「×」印を描いた須恵器が見つかっており、関連があるものと考えられます。
今後の調査でもまた見つかるかもしれません。
3区の近現代耕作土を除去中に、「陶馬(とうば)」が見つかりました。粘土で形づくり、須恵器と同じく窯で焼いたものです。
見つかったのは胴体部分だけで、残念なことに頭と4本の脚は欠けて失われています。
こうした馬の造形は、奈良~平安時代に主に水のまつりに使われたものです。
現場は谷で湧水もありますので、まつりが行われていたかもしれません。
2区の全景写真を撮るため、ラジコンヘリにフィルムカメラとCCDカメラを取り付けてこれから大空に飛び立ちます。
ラジコンヘリを使った撮影では、遺跡のほか、周辺の地形もばっちり写っています。
遺跡の北側には高住の集落、その北側には湖山池と青島がよく見えます。
さらにはるか後方には日本海も見えます。
なんと、約50名からなる団体さんが遺跡の見学に来られました。
炎天下の中、カメラを片手にメモをとり、熱心に話に耳を傾けておられました。
これを機会に鳥取の遺跡ファンが増えるといいなあ。
3区の第1面の遺構検出状況の写真を撮影しました。
3区は、谷と丘陵の裾部からなる調査区ですが、その丘陵裾部で多くの穴が見つかりました。
4、5個の穴が直線状に並ぶものもあり、建物や柵の跡かもしれません。
そのほか、四角く土の色が違う部分があり、大型の竪穴住居跡の可能性があります。今後の調査が楽しみです。
中世の包含層を掘り下げていたところ、黒く輝くものを発見し、慎重に周囲を掘り下げたところ、「漆器」であることが分かりました(写真下)。
かなり破損がひどく、どのような形の器だったかよく分かりませんが、黒地に赤い漆で花のような紋様が描かれています。
すぐ近くからもう1点、紋様はありませんが漆が塗られた木製品が見つかっており(写真上)、同じ漆器の破片かもしれません。
炭がたくさん混じる土が入った穴を半分だけ掘り下げたところ、ほぼ完全な形の「ふいご羽口(はぐち)」が入っていました。
ふいご羽口は、製鉄や鍛冶の炉(ろ)に空気を送る送風管の先端に取りつけるもので、高熱により溶けて先端が黒く変色しています。
近くに炉跡と考えられる固く焼けた場所も見つかっており、どうやら鍛冶が行われていたようです。
1区(山斜面)の調査に向けた、足場の組立が完了しました。
これは安全に発掘作業をすすめるためのもので、これからいよいよ1区の調査スタートです。
昭和のはじめごろ、宮ノ谷地区で銅鐸(通称:高住銅鐸)が発見されています。
銅鐸は一か所に複数埋められていることもあるため、もしかしたらここにも埋まっている?…なんて期待も高まります。
8月5日に紹介した『竪穴建物跡?』の続報です。
慎重に掘り下げた結果、2棟の竪穴建物が重なり合っていました。
建物はいずれも四角い形をしていて、右側の建物の方が新しいということがわかりました。
左側の建物は、出てきた土器によって古墳時代終わり頃(約1,400年前)に建てられたものと考えられます。
この後も慎重に調査して、この建物の特徴を明らかにしていく予定です。
こちらは右側の建物の赤丸部分のアップ写真です。
土器の下の土が真っ赤に焼けていて、炭もみられることからこの場所が『炉』(ろ)として使用されていたようです。
その後、炉の上に意図的に割った土器が敷かれていました。
この炉を使って、おいしい料理を作っていたのでしょうか?
3区谷部西半の全景写真を高所作業車から撮影しました。
中央に黒く見える部分は、中世前半頃(12~13世紀)に水田として使用されていた谷筋です。
谷を横切るように作ったあぜで、細長い区画の水田を作っていました。
今後さらにこの水田の下層を掘削していきます。
1区は急斜面の調査区ですが、斜面の途中に半円形のテラスのような平坦面があり、穴がいくつか見つかりました。
周辺から遺物はほとんど見つかっていませんので時期は分かりませんが、人工的なものと考えられます。
2区の北東部で見つかった大型掘立柱建物の板状の柱材を取り上げました。
6本見つかった板状の柱のうち1本を除く全てが、根元近くの両側面で1カ所ずつ三角形にえぐられていました(写真右側)。
このえぐりがどのような目的で行われたのか、今後検討していきたいと思います。
谷にたまった土の堆積状況を確認するために一部を溝状に掘り下げたところ古代の須恵器が出てきました。
慎重に土を取り除いていくと…あれれ、底の部分に何やら文字?が…!
しかしながら何と書いてあるのかは、これから検討します。
土から取り上げて、赤外線カメラを使って判読していきます。
カメラ搭載のラジコンヘリを使って、調査区全体の写真撮影を行いました。
当日まで、雪や雨が続いていましたが、撮影時は奇跡的に雨が止み、撮影することができました。
丘陵とそれらの間に挟まれた谷(中央の黒い部分)の違いがはっきり見えます。
この日、4月から約8か月間続いた今年度の発掘調査が終了しました。
調査に関わった皆様、お疲れ様でした!!
今後は取り上げた遺物を洗ったり、写真を撮ったりといった整理作業を行います。
もしや、新たな発見があるかも…!?