囲炉裏跡で出土した炭の樹種が判明しました!
今回も囲炉裏跡に関する新着情報です。囲炉裏内から出土した炭の塊について樹種同定を行っていましたが、同定した8点がすべてケヤキであることが判明しました。これにより当初予想していた通り、出土した炭化材は丸太、もしくは筒状に加工された一木であることを改めて確認することができました。
ケヤキは槻(つき)とも呼ばれるニレ科の落葉高木で、木目が美しいことから現代では高級品ですが、古代においては一般的に用いられた木でした。弥生時代の青谷上寺地遺跡では高杯などの木製容器、舟を漕ぐ櫂(かい)などに用いられ、長瀬高浜遺跡でも竪穴建物の床面から炭化材が出土していることから、建築材として用いられた可能性があります。また、ケヤキは薪として用いた場合、着火しにくい反面、硬く比重が高いため火持ちがよい、つまり燃焼時間が長いといった特徴があるようです。
樹種が判明したことで、炭化材の用途が特定できたわけではありませんが、今後、囲炉裏の構造を解明していくうえで一つの重要な手がかりとなりそうです。
発掘調査速報展が始まりました!
3月5日から長瀬高浜遺跡の発掘調査速報展が鳥取県立博物館で始まりました。初公開を含む出土品とともに発掘調査のようすなどを収録した動画もご覧いただけます。
ところで、皆さんは県立博物館の常設展にも長瀬高浜遺跡の出土品が展示されていることをご存じでしょうか?
なかでも重要文化財の埴輪は必見で、蓋(きぬがさ)形埴輪や甲冑形埴輪などが展示されています(県博常設展示「埴輪」ページはこちら)。
ぜひ、最新の発掘調査成果と合わせてご覧ください。
発掘調査速報展『砂に埋もれた古墳時代の大集落 長瀬高浜遺跡』を開催します!
令和4・5年度に行った長瀬高浜遺跡の発掘調査速報展を下記のとおり開催します。
古墳時代の竪穴建物から出土したほとんど壊れていない土器や鉄の矢じり、ヒスイ製の勾玉など初公開資料を含む出土品を展示します。
ぜひ、この機会に鳥取県を代表する長瀬高浜遺跡の最新の調査成果をご覧ください。
会場
鳥取県立博物館 歴史・民俗展示室歴史の窓コーナー(鳥取市東町2丁目124番地)
会期
令和6年3月5日(火)~4月7日(日)休館日:月曜日
開館時間
午前9時~午後5時まで
入館料
常設展 一般180円(20名以上の団体150円)
主な展示品
古墳時代の土師器、須恵器、ヒスイ製勾玉、管玉、鉄の矢じり、釣り針、ヤリガンナ、穂摘具、鞴(ふいご)の羽口など(鉄製品は3月15日以降の展示となります)
立体剥ぎ取りによる囲炉裏跡の保存処理が完了しました!
専門業者にお願いしていた囲炉裏跡の保存処理が完了し、ついに納品となりました(写真1)。土器以外は表面を樹脂で固めて剥ぎ取った本物で、土器の部分は本物そっくりに再現された複製品です。囲炉裏を囲む土手、内部の炭、砂丘遺跡の雰囲気を含め、まさに出土した状態をリアルに感じることができる素晴らしい仕上がりです。
現地をご覧になられていない方にも見ていただけるよう、さっそく地元でのお披露目展示を検討中していますので、詳細が決まり次第お知らせします。また、近日公開予定の「長瀬高浜だよりTHE MOVIE」でも紹介しますので、そちらもご期待ください。
くっついた「令和の出土品」と「平成の出土品」
以前、昨年度の調査で出土した古墳時代の大型の壺が、平成7年度の発掘調査で出土した資料と文様などがそっくりで、もしかすると同一の壺かもしれないということをご紹介しました(写真1・2)。この度過去の調査で出土した資料が収蔵されている県埋蔵文化財センターに持っていき、本当にくっつくか確かめてみました。その結果は、何と・・・・見事にピッタリとくっつきました(写真3)。今回の資料調査に対応くださった県埋蔵文化財センターの職員の方が偶然にも平成7年度の発掘調査を担当された方で、とても感動されていました。
昨年度の資料は竪穴建物跡から、平成7年度の資料は井戸跡から他の土器と一緒に捨てられた状態で出土しています。両遺構は25mほど離れた位置にあり、なぜ、壊れた(壊した)土器をわざわざ離れた場所に別々に捨てる必要があったのか不思議です。今回、壺の上半分は完全な形を復元できることが分かりましたが、下半分の破片は未だに見つかっていません。これから令和5年度の出土品の土器洗い作業が本格的に始まりますので、また、新たにくっつく破片が見つかるかもしれません。
古墳時代の平底鍋が出土!
現地説明会や新聞報道でも話題になった古墳時代初め頃の囲炉裏跡。その際、古墳時代に入ると調理方法が変化し、西日本では燃焼効率を高めるために鍋(甕)の底が平底から丸底へと変化したことをお伝えしました。ところが、今回とても興味深い資料が見つかりました。
写真1は、竪穴建物跡から出土した完形の甕で、一見、何の変哲もない鍋に見えますが、何と平底となっているのです(写真1・2)。これまでの調査で膨大な量の土器が出土した長瀬高浜遺跡ですが、こうした平底の鍋はわずかしなく、かなりレアな一品です。ただし、底には煤が付着しており、丸底鍋と同じく支脚や自然石を用いた三石などの上に『浮き置き』したとみられます(浮き置きについては、最新のYouTube動画をご覧ください)。また、白くふきこぼれた痕跡もみられ、通常の炊飯に用いられたとみられる点も丸底鍋と変わりません。では、なぜ平底にする必要があったのか、丸底鍋との違いは何か、ますます謎が深まります。
令和5年度の発掘調査が終了しました!
山陰地方もいよいよ厳しい冬が到来し、大詰めを迎えた発掘調査は昨年度と同様に雪の中での過酷な作業となりました(写真1)。調査終盤は密集して見つかった古墳時代前期の竪穴建物跡や井戸跡などの調査に追われましたが、無事に今年度の発掘調査を終了することができました(写真2)。出土遺物も予想をはるかに超え、土器を中心に何と遺物収納用のコンテナで700箱近くに上りました(写真3)。コンテナ1箱が少なくとも10㎏程度はあるため、実に7トン近くの遺物が出土した計算になります。
次の発掘調査は、来春を待たなければなりませんが、年明けから今年度の調査成果を取りまとめる作業や出土品の整理作業を順次進めていく予定です。その過程でまた新しい発見があるかもしれません。ご期待下さい。
囲炉裏跡の剥ぎ取りを行いました!
現地説明会や新聞報道でも話題となった、古墳時代初め頃の囲炉裏跡。保存状態が良好で、全国的にも類例のない貴重な遺構であることから剥ぎ取り保存することにしました。剥ぎ取りは専門の業者にお願いしましたが、遺構がどのように剥ぎ取られるのか作業前から興味津々。固唾を飲んで作業のようすを見守りました。
はじめに記録用の写真を撮影した後、シリコンを遺構が壊れないように慎重に塗っていきます(写真1)。それを一晩寝かせ、樹脂でさらに塗り固めた後、木枠や支持材を入れ固定します(写真2)。固まった樹脂と木材を$525Dがして土台とし、最後にシリコンを剥がして土台に乗せ、現地作業は完了です(写真3)。写真4は剥ぎ取り後の囲炉裏跡で、表面の砂や炭化材がきれいに剥ぎ取られていることが分かります。作業は2日がかりで、どれも気が抜けないとても繊細な作業ばかり。剥ぎ取りがうまくできた瞬間はその職人技にとても感動しました。
今後、室内での復元作業を進め、完成は今年度末の予定です。どんな仕上がりなるのか、今から楽しみです。現地での剥ぎ取り作業のようすはYouTubeでも後日、公開予定ですので、ぜひご覧ください。
数多くの井戸跡を発見!
今年度の発掘調査も佳境を迎え、現地説明会終了後の調査では古墳時代初め頃の井戸跡が数多く見つかりました。井戸跡は今のところ10基を数え、その多くは調査区中央の標高が低いくぼ地部分に集中しています。以前、砂丘地で水はけのよい長瀬高浜遺跡では珍しく、降雨時に水が溜まった場所としてご紹介した地点にあたります。
発見された井戸跡は径が3~4mのものが多く、いずれも木枠や石組みを持たない素掘りの井戸です(写真1)。写真2の井戸は、くぼ地の最も低い地点につくられた大型の井戸です。この井戸からは捨てられた大量の土器とともに、木の根や枝が腐ることなく生木の状態で出土しました。井戸跡内に堆積した土も粘土やシルトなどの砂よりも粒子の細かい土で、調査時は湧水も著しく、さながら低湿地のように泥だらけの調査となりました。
長瀬高浜遺跡では、8万㎡を超える過去の調査でも井戸跡はわずか12基しかみつかっていません。さらに、そのうち6基は西に隣接する平成7年度の調査区で見つかっており、今回の調査区を含めたエリアにいかに井戸が集中しているかが分かります。長瀬高浜の大規模なムラを支える水源地として重要な役割を果たしていたと考えられます。
ばらばらの土器片をくっつけると・・・
昨年度出土した土器の接合・復元作業もいよいよ終盤を迎えています。
写真1は古墳時代初め頃の土坑(大きな穴)に捨てられていた土器ですが、ばらばらの状態で出土しており、破片の数は300点近くにも上ります。接合・復元作業では、破片をやみくもにくっつけるのではなく、まず、パズルのように机に並べ、土器全体の中でどの部分の破片なのかを確認します(写真1はその状態)。
その後、底の部分から一つ一つ丁寧にくっつけていき、写真2のような土師器の壺を復元することができました。壺は高さ58㎝、胴部の最大径が46㎝に及ぶ大型のもので、中に何が容れられていたのか、とても興味深い資料といえます。
今回ご紹介した土器の接合作業の様子は、後日、動画「長瀬高浜だより THE MOVIE」でも公開予定です。ぜひ、お楽しみに。
土器の中から貝殻が出土しました!
前回ご紹介したたくさんの土器が出土した竪穴住居跡(写真1)で土器を取り上げていたところ、貝殻の入った甕(かめ)を見つけました(写真2)。
貝は二枚貝で、イガイのように見えるものがあり(写真3)、7~8枚の貝殻が重なった状態で顔をのぞかせています。他に魚の骨のようなものも出土しており、この土器は魚介類などを調理した鍋、もしくは食べかすを入れた器だったのかもしれません。竪穴建物は建物として使われなくなった後、ゴミ穴として利用され、土器とともに様々なもの(ゴミ)が一緒に捨てられたであろうことがわかります。
竪穴住居跡の発掘が始まりました!
今年度の発掘調査が始まってはや4カ月。長瀬高浜遺跡のメインともいえる竪穴住居跡の発掘がいよいよ始まりました(写真1)。住居跡がどのように埋まったのかを観察しながら慎重に掘り進めます。たくさんの土器が続々と出土し、写真2のような大きな壺(つぼ)も姿をあらわしています。竪穴住居跡はまだまだたくさんありそうです。今後の調査にご期待ください。
鉄の鏃(矢じり)が出土しました!
平安時代ごろの建物跡の周辺で鉄の鏃を発見しました(写真1)。この鏃は先端が尖っておらず四角い斧のような形をしています(写真2)。「方頭式(ほうとうしき)」や「方頭斧箭式(ほうとうふせんしき)」などと呼ばれているもので、狩猟用の鏃として鳥の翼や獣の足を「射切る」ものとされることがあります。変わった形の鏃ですが、古墳からもよく出土するタイプです。
出土した鏃は、形状や出土した場所から平安時代の終わりごろのものと考えられます。鏃の下の方、矢に取り付ける部分である茎(なかご)は折れてしまっていますが状態は良く、長さは残っている部分だけで約5.9cm、刃の幅は約2.8cm、厚さは約0.7cm、重さは約30gもあり、とても重厚な鏃です。実際に狩猟や戦に使われたかどうかはわかりませんが、射ち込むと鏃の形状もあいまって相当な威力だったことでしょう。
平安時代終わりごろとみられる建物群を発見
前々回、平安時代終わり頃の掘立柱建物跡について紹介しましたが、その周囲でも複数の建物跡が確認されたことからドローンによる空中撮影を行いました(写真1)。
建物跡として明確に復元できたものは少ないですが、柱穴が数多く見つかっていることが分かります。
写真2は長さ5.5m(桁行4間)、幅3m(梁行2間)の建物跡です。
見つかった建物群の性格は今のところよく分かっていませんが、出土遺物などを含めて検討していく予定です。
いよいよ古墳が見えてきました!
現在、奈良・平安時代から古墳時代を中心とした時期の調査を行っていますが、いよいよ古墳が見えてきました。
古墳は少なくとも4基あり、写真の古墳は、直径が約15mの円墳です。古墳の中央では人が葬られた石棺(せっかん)の一部が露出し、蓋石(ふたいし)がはずれた状態でみつかっています。
過去の調査では、埋葬施設から、人骨、鉄製の武器(刀剣など)や装身具(ガラス小玉など)といった副葬品が見つかっています。この石棺からは何が見つかるか、今後の調査に期待がふくらみます。
また、各古墳が築造された時期や、墳丘の構造、埋葬施設の数・形態などを確認し、遺跡が墓地として利用されていた時代の様相を明らかにしていきます。
平安時代の皿がまとまって出土!
現在、奈良時代から平安時代のものと考えられる建物跡などの調査を行っています。
調査区の一角で見つかった直径60cmほどの穴を掘り下げると、土師器(はじき)と呼ばれる素焼きの皿が9枚まとまって見つかりました。皿は直径が8cmほどと小さく、重ねた状態で穴の中に置かれたようです。皿は形の特徴から平安時代の終わり頃(900~1000年前)のものと思われます。
皿が見つかった穴のすぐそばには、地面に掘った穴に柱を立てて固定した掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)があることから、建物を建てるときに地鎮祭のような儀式を行ったのではないかと考えています。
このような遺構では、皿とともに銅銭などが見つかることがあります。今後は皿以外のものが納められていないか調査していきます。
銅鏃(どうぞく:青銅製の矢じり)が出土しました!
長瀬高浜遺跡では、中世(鎌倉時代~室町時代)に繰り返し畠の耕作が行われており、掘削によって下層の土が巻き上げられるため、耕作土には古い時代の遺物が大量に混入しています。
その耕作土の中から、銅鏃が出土しました。今回の調査では初めての発見です。形状やサイズから、古墳時代前期の集落が営まれていた時期のものと考えられます。長さ3.4cm、幅1.0cm、厚さ0.3cmの小型品で、刃先は欠け、銅が錆びて青緑色になっています。
長瀬高浜遺跡では過去の調査で古墳時代前期とみられる銅鏃が合計14点出土しており、銅鏃が集中して出土する遺跡として知られています。
古墳時代前期を中心とした集落の調査には秋頃に着手する予定です。銅鏃をはじめとする貴重な出土品がまだまだ見つかる可能性がありますので、今後の発見にご期待ください!
地下水が湧き出る場所を発見!
下層にある古墳時代の遺構を把握するため、トレンチ(試し掘りのための溝)を掘り下げたところ、地下水が湧き出る地点を発見しました(写真1)。場所は、調査区の中央付近で、標高2.5m前後と最も低いくぼ地部分にあたります。
長瀬高浜遺跡では砂地であるため雨が降っても水たまりすらできないのですが、この場所は調査の開始当初から雨が降るたびに水没し、水が抜けない長瀬高浜遺跡の中でも珍しい場所でした(写真2)。
こうした湧水地点は過去の調査でも見つかっていませんが、隣接地で行われた平成7年度の調査では古墳時代の井戸跡がいくつか確認されています。長瀬高浜の人々は砂丘地でありながら地下水が豊富に湧き出ることを知っており、そのことにより大規模なムラを営み続けることができたのかもしれません。。
「平成の出土品」と「令和の出土品」がくっつくかも?
発掘調査に並行して出土品の整理作業も進み、現在、昨年度出土した土器の接合作業を行っています。
写真1は、古墳時代前期の竪穴建物跡から出土した大型の壺です。円形をした「竹管文(ちくかんもん)」や、「羽状文(うじょうもん)」と呼ばれる文様が丁寧に施された特徴的な土器です。
実は、この土器と大きさや形、文様ともそっくりな土器が平成7年度に行われた隣接地の発掘調査で出土していることが分かりました(写真2)。土器は井戸跡から出土しています。まだ写真や図で比較しただけですが、完全な形を復元できていないことから、今回見つかった破片が接合する可能性が高いと考えられます。
平成7年度の出土品は鳥取県埋蔵文化財センターに保管されており、今後、資料調査を行い接合するか確かめたいと思います。
また、調査経過を皆さんにお伝えします。
つくられ続けた畠
今回の調査で見つかった畠跡では、これまでになかった新たな知見を得ることができました。
それは、畠跡が何度か作り直されていることです。写真1は畝の断面で、よく見ると、畝の芯にシロスナが溝状に堆積していることが分かります。このことは、当初、畝間であった部分がシロスナ(飛砂)で埋まり、その上に新しい畝が築かれたことを示しています。畝が3枚程度重なる箇所も確認することができます。
最終的に畠は分厚いシロスナによって覆われて埋没してしまいますが、当時の人々が飛砂に悩まされながらも懸命に畠を耕し続けた姿を想像することができます。
ヒスイの勾玉が出土しました!
長瀬高浜遺跡の調査は畠の下層を発掘中です。
下層の遺構を目指して掘削中に土の中から小さな勾玉が顔を出しているのを発見しました。勾玉は長さ1.2cm、幅8mm、厚さ4mmの小さなものです。光沢のある薄い緑色でヒスイ製と見られます。おそらく、本来はもっと深い古墳時代や弥生時代の地層中にあったものが畠の耕作によって土とともに巻き上げられたため、新しい時代の畠のすぐ下層で見つかったのでしょう。とても小さな遺物ですが、注意深く土を観察していたため見つけることができました。
小さな勾玉ですが、キラキラ光ってとてもきれいです。今後の調査にも期待が膨らみます。
畠跡の全貌が明らかに
中世の畠跡の調査が進んできたことから、7月12日にドローンで全体写真を撮影しました。今回の調査面積は約3000㎡で、ほぼ全域にわたって畠が作られていることが明らかとなりました。上空から撮影すると、畠の畝やそれを区画する畦や溝などが計画的に作られた様子をはっきり見ることができます。今回は動画撮影も併せて行いましたので、YouTube「長瀬高浜だよりTHE MOVIE」等で近日中に公開する予定にしております。ぜひ、お楽しみにお待ちください。
畠跡について調査指導をいただきました
中世の畠跡がとても良好な状態で見つかっていることから、7月3日に大阪市文化財協会の大庭重信氏に調査指導をいただきました。大庭氏は古代の畑作や農業史に精通されており、みつかった畠跡の評価や調査方法などについて教えていただきました。
大庭氏から「畠跡がこれだけ大規模、かつ良好な状態で見つかった事例は珍しく、貴重である。」、「畠は一条植えで、つるが広がるウリ科などではなく、垂直方向に生育する作物を栽培していたのではないか」。「斜面につくられた畠跡は現代のものと違い、畝が地形に直交して作られている。同じような畠跡は、青銅器時代の韓国でも確認されており、排水とともに低地部分の畠へ配水を行う機能を担ったと考えられる。」、「栽培された作物については、微細な種子が土の中に残されていないか、土を洗って調べた方がよい。」など数多くのご助言をいただきました。
いただいた指導内容を今後の調査で生かすとともに土壌分析なども進め、中世の畠の実像に少しでも迫ることができればと思います。
中世の畠跡が見えてきました!
調査開始から3週間が経過しました。大量の砂をどのように運び出すか四苦八苦しながら掘り進めた結果、過去の調査成果から想定したとおり、地表面から4m程度掘り下げたところで中世の畠(はたけ)跡が見えてきました。
畠跡は黒い砂の畝(うね)と畝の間が白い砂で埋まっているため、上から見ると平行する畝が何本も並び縞模様に見えます。また、畝の周囲には白い砂が帯状に延びており、畠を区画する溝や道の可能性があります。遺構の検出状況を写真などで記録した後、白い砂を掘削して畝や溝の形状などを確認していきます。
遺構を確認できたのはまだ全体の半分程度の範囲です。引き続き、表土の砂の搬出と中世の遺構の調査を進めていきます
新しい調査区の発掘を開始しました!
5月29日から、今年度の調査区の掘削を開始しました。今回の調査区は、昨年12月から5月まで行った調査区の東側に位置しています。北東側に隣接して平成10年度に行った調査地では、中世の畠跡や古代の建物跡、古墳時代の集落跡や古墳などが見つかっています。これらの調査成果から、今回の調査区は、地表面から4~4.5m程度掘れば、中世の畠跡が見えてくると予想しています。
とにかく砂を深く掘らなければならないため、遺構が見える深さを目指して重機でどんどん掘り下げていきます。しかし、開始早々の梅雨入りで、雨により作業を休止した影響もあり、まだ遺構は確認できていません。また、砂の層は雨で簡単に崩れてしまうため、雨水対策をしながら計画的に作業を進める必要があります。
新しく着手した調査区の発掘調査は、まだまだ始まったばかりです。今後も調査の情報を発信していきますので、引き続きご注目ください。
鉄器のX線写真撮影
昨年度からの調査で古墳時代の鉄器が40点ほど出土しています。これらの鉄器は1700年間も地面に埋まっていたためにサビに覆われていて本来の形がよく分からないものが多くあります。
そこで!このサビを透かして見るために、先日鳥取県埋蔵文化財センターが所有するX線写真撮影装置を借りて撮影を行いました。
フィルムの上に鉄器を並べ、巨大な撮影装置の中でX線を照射し、フィルムを現像すると私たちが病院で見るようなレントゲン写真ができあがります。
撮影した鉄器の中には、サビの進行が表面でとどまっているものも多く、元の形がはっきりとわかるものもありました。これにより、不明だった鉄器の用途推定することができます。X線写真撮影は出土した鉄器を破壊することなく調査できる貴重な手段です。
金床石(かなとこいし)が出土!
今回も出土品の整理作業中に明らかになったことをご紹介します。
写真1は、古墳時代初めの竪穴建物跡から出土した砥石ですが、よくみると、所々に溶けた鉄がこびりついていることが分かりました。このことから、もともと砥石として使用されたものの、その後、金床石(かなとこいし)、つまり、鉄を叩いて加工する際に使用する台石に再利用されたと考えられます。
この金床石が出土した竪穴建物跡(写真2)では、昨年度ご紹介した鍛冶炉に風を送る粘土製の管である鞴羽口(ふいごはぐち)や鍛冶作業で生じる不純物である鉄滓(てっさい)も少量ながら出土しています。肝心の鍛冶炉が見つかっていないことから、今のところ、この建物が鍛冶工房であったとはいえませんが、今後の調査で新たな鍛冶工房の発見に期待が膨らみます。
新たな建物跡を確認!
古墳時代の初め頃と考えられる新たな建物跡を確認しました(写真)。柱列の片側がその後につくられた竪穴建物跡によって大きく壊されていますが、6本の柱からなる掘立柱建物とみられます。規模は長さ(桁行2間)が2.8m、幅(梁行1間)が2mで、昨年度にご紹介した独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)建物とは異なり、一般的な建物構造といえます。ただし、柱穴は径60㎝程度と比較的大きく、深さもあることから、かなりしっかりとした高床の建物であった可能性があります。柱自体は残っていませんでしたが、痕跡から径20~25㎝前後の柱であったと考えられます。
掘立柱建物跡はもう1棟が新たに確認され、今のところ3棟見つかっています。その他にも柱穴とみられる穴が調査面積からすると数多く確認されており、周囲にはさらに多くの建物が営まれていた可能性があります。
変わった勾玉が出土
今回は、昨年度の調査で出土した勾玉を紹介します。皆さんは「勾玉」といえば、美しい緑色をした碧玉製や透き通った青色のガラス製のものをイメージされると思います。ところが、今回出土した勾玉には、ちょっと変わった素材でできたものがあります(写真)。
写真奥の一番大きい資料は、長さ4㎝程の軽石製で、写真手前の茶色い勾玉は粘土製です。いずれも加工が粗く、稚拙なつくりをしています。また、軽石製の勾玉は穴も貫通しておらず、アクセサリーとして実際に使われたものではないことが分かります。
なぜ、このような勾玉がつくられたのでしょうか。模造品として祭祀に用いられた、もしくは、子供のおもちゃのようなものだったのか?想像が膨らみますが、謎の出土品といえます。
竪穴建物の壁に掘られた柱穴
昨年度、床面の穴に加えて、壁面にあけられた穴が柱穴となる可能性をもつ竪穴建物についてお伝えしましたが、調査を進めると、壁面でさらに複数の柱穴が見つかりました(写真)。等間隔とまではいきませんが、ある程度の間隔で柱穴が巡っていることが分かります。
この地域における古墳時代の竪穴建物で、このように壁面に柱穴をもつ事例はほとんどありませんが、長瀬高浜遺跡では、過去の調査でも床面に明確な柱穴をもたない竪穴建物が一定数確認されています。もしかすると、今回と同じような構造の建物であった可能性もあります。一般的な竪穴建物との違いや、どのような上屋構造であったのかなど、今後の調査で検討していく必要がありそうです。
遺跡の乾燥対策
長瀬高浜遺跡の発掘調査進行中。長瀬高浜遺跡は砂地の遺跡です。最近は気温も高く、あっという間に地面が乾燥して真っ白になり、遺構(建物の跡など)が全く分からなくなってしまいます。
写真を撮る時にも真っ白ではよくないのでジョウロで水を撒きますが、広範囲に撒くときは高圧噴霧器の出番。風向きを読んでうまく水を散らします。
他の遺跡でこれをやると水たまりができてしまうでしょう。地面の吸水、乾燥が早い長瀬高浜遺跡ならではの光景です。
令和5年度の発掘調査を開始しました!
4月5日から令和5年度の長瀬高浜遺跡の発掘調査を再開しました。昨年度発見した古墳時代よりももっと古い時代の遺構・遺物を目指して深く掘り下げていきます。
調査初日から早速土器が顔を出しはじめました。今年度もたくさんの発見があると期待しています。長瀬高浜遺跡の発掘調査成果にぜひご期待ください!